第一章

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由莉は仕事用の携帯電話を開いた。 一條に頼んだところで、締め切りを延ばしてくれるとは到底思えない。 かと言って、金曜日までに一本仕上げられるとも思えない。 「由莉?」 ドアの向こうで由樹の声がする。 「なに?同人誌書く暇ならないから勘弁してよ。」 「今やれることを今やらないと後悔するよ。」 「……今すぐ働け。」 「あれ?俺すごくいいこと言ったはずなのに。なにこの言いようのない敗北感。」 由莉は大きなため息をつく。 そのとき手の中で携帯電話が震えた。 ディスプレイには一條の名前が点滅している。 「はい、もしもし。」 「早乙女先生、エッセイをもう一本書くつもりはありませんか?」 「いきなりなんですか?今月はいっぱいいっぱいですよ。」 「そうですか、書いてくれますか。」 「私の話聞いてます?」 「いえ、全く。」 じゃあ電話してくるな と言えるわけもないので、由莉はわざとらしい大きなため息をついた。 しかし一條は気にも留めず続ける。 「文学雑誌プレアデス用のものなのですが、今月中にお願いします。」 「テーマは自由なんですか?」 「ええ。でも先生に依頼がきたということは、恋だの愛だのについて書いてほしいということなのでしょう。」 「……一條さん、今週の金曜日の締め切りを一日延ばしてくれたりしません?」 電話の向こうで一條の声が消える。 少し間をおいて、冷静な声が返ってきた。 「先生がやってることはお遊びじゃありません。仕事です。」 由莉は言葉を飲み込んだ。 腹が立つほどに、一條の言うことはもっともだった。
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