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由莉は黙って車のドアを閉めた。
もちろん、綺麗に磨かれた窓ガラスに指紋がつくよう細心の注意を払うことを忘れなかった。
静かな車内で由莉は目を閉じる。
一條の匂いだ。
香水の類は一切付けないといっていたが、いつも甘い匂いがする。
一條はいけ好かないが、由莉はこの香りは好きだった。
「あ……。」
そうだ
「匂い」っていいかも。
平安時代の歌に、衣に焚きしめられた恋人の香の残り香を愛おしむ歌があった。
一條は窓越しに由莉を見た。
手が忙しくキーボードを叩いている。
「やっと書き出したか……。」
書き出せば早いのだ。
由莉はプロットを練らない。
思い付きと気分で感覚的に書き上げる。
そのため一條は作品が道をそれないように導く役目も負っていた。
瞳を輝かせ文章を紡いでいく由莉の横顔は、19歳にしては老成していて、それでいてあどけない。
少なくとも、兄の由樹よりはしっかりしている。
物思いにふける一條と、原稿を書き上げる由莉の頭上にはオレンジ色の空が広がり、紫色の雲がたなびいていた。
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