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本体を置いて、影だけが悠然と道を闊歩している。
そんなことあるわけがない。
私は更に身を乗り出し、観察しようとした。
その時、その影が上を……階段の上にいる私の方を見つめたのだ。
そして英国紳士のように帽子を上げ、軽く会釈をし……真っ黒に見えるその顔で微笑んだのだ。と、今でも私は思っている。
「!」
その笑みで私の頭はやっと事態を把握した。
手すりを握り締めていた手を無理矢理引き離し、体の隠れる踊り場の隅に移動する。
今階段を駆け上がり、家に戻るのは怖かった。私の背中を影に晒すことになるからだ。
だから踊り場の隅で息をするのも忘れ、石像のように動かずにいた。
再び同じテンポで聞こえてくる、カラコロという下駄の音。
それが少しずつ遠くになっていく。
あれは一体何なのだ?
遠のいていく音に私の好奇心は再び燃え上がる。
意を決して、立ち上がり音の消えていこうとする方角を見つめる。
人影は白い霧の中に吸い込まれていくようだった。
いや、白い霧と一体となっていくようなのか?
あれだけ暗い色を纏っていた人影はもやに触れた途端、その輪郭を曖昧にしていき……。
気がつけば下駄の音は止み、その姿も見えなくなっていた。
私は恐る恐る階段を下り、人影が消えていった白い霧の先を見つめ、耳を澄ました。
だがもう何も聞こえず、何も見つけることは出来なかった。
結局私は飲み物を買うのを忘れ、慌てて家に戻り家族にそのことを話したが、当然誰も信じてはくれなかった。
私は昭和か大正か明治か、時代はよくわからないけれど、昔この道を歩いた人が忘れていった影なのではないかと今でも思っている
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