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斜陽
積み上げられた土嚢の隙間から男が飛び出して初音の手を引いた。
勢い余って初音はその男の胸に倒れ込む。
その刹那ムスタングの放った銃弾が紙一重で初音の背を掠めた。
まさに九死に一生を得る思いで初音は自分を抱きかかえるこの男の顔を見上げる。
決して端麗とは言えないものの、黒縁のメガネの下にある実直そうな眼差しには妙な安心感がある。
「あ、ありがとうございました!」
初音は正気を取り戻しハッと男の分厚い胸板から飛び退いた。
「いやいや、無事でなによりや、子供はお国の宝、大切にしてください」
男はそう言うと、もう何事も無かったかのように闇市に米を求め踵を返し立ち去っていった。
初音は立ち去る男の背中を見送りながら張りに張った自分の腹を撫でる。
「まだ生きている」
初音は貴族の父と富豪の母の間に生まれた。
大きな屋敷で大勢の使用人に囲まれ
「まぁこいさん、今日もホンマにかわいらしい」
とまるで蝶よ花よと溺愛のなかで育てられてきた。
しかし生まれたときからそんな環境で育った初音にとってそれはなにも特別なものではなく当たり前のものであり、初音は世界が自分を中心に回っていると信じて疑っていなかった。
だが、軍部が台頭してくるとやがて貴族の世界には斜陽が差し掛かり、初音を包んでいた甘い世界もそれと符合するようにして変わり始める。
富豪の婿養子であった父が事業の失敗の末失脚すると、時を同じくして戦火は愈々日本の本土を焼き始めた。
富豪の母と縁が切れ、萩に嫁いでいた初音のもとには次々と訃報が届く。
戦地で主人が亡くなり、続いて父が空襲で亡くなった。
居場所を失った初音は大阪に住む弟の元に身を寄せることにする。
しかしそこも初音にとって安住の地とは成り得なかった。
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