赴任

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 寝室とは言っても、リビングとの境は磨りガラスになっている。  誰かが家に来たなんていつぶりだろうかと振り返ったが、まだ学生だった頃に一時期同棲していた彼女がいたくらいで、いい大人になってからは男も含めて俺の家に誰かが来たことはなかった気がする。  ほとんど下ろしたてのベットカバーと毛布に、一応ルームスプレーを吹きかけた。1回とはいえ、他人の俺の匂いを感じながら寝るなんて、彼女の立場を考えると少し申し訳なく感じる。 「え、これ俺の落ち度なの?」  ふと我に返って呟いてしまう。  明日の朝のことを全く考えていなかったが、一旦人を家に泊めた次の日ってどうすればいいんだっけ。 「先生?」  俺が自問自答していると、後ろから声が聞こえた。歯を磨き終えて、ゴムをほどき髪を下ろした彼女が立っていた。 「磨いた?寝る時はいつも何着てるの?」  予備のスエットを出しながら俺がそう聞くと、「え」と戸惑う。 「なんかその質問ちょっとドキッとしますね」 「何が」 「寝る時の格好なんて普通聞かないので」  あ、と思った。まずいまずい。人間って怖い。このイレギュラーな状況にもう慣れて普通に寝る時の格好とか聞いてる俺。 「ごめんごめん、気持ち悪いな、俺」  焦った俺を見て笑う。「冗談です」と楽しそうに近づいてくる。 「先生の落ち度じゃないですよ。私の落ち度です」  さっきの俺の呟きを聞いていたのか。俺の手に持ったスエットをやんわり触り、伏せ目がちに笑う。 「今日はごめんなさい。もうこういうことがないようにしばらくお酒には気をつけます」 「ああ」  手に持ったスエットを受け取ると「ありがとうございます」と軽くお辞儀する。なんで俺が照れるんだよ。 「明日は何時起き?学校に鍵取りに行くんだろ?」 「そうですね、7時に門が開くので、それ目掛けて起きるようにします」 「そうか、わかった。俺も目覚まし一応かけとく」  買ったばかりのタオルを枕に敷いてやると「几帳面なんですね」と言う。 「ゲストですから。普段はこんなことしないよ。じゃあおやすみ。なんかあったらソファにいるから起こして」 「ありがとうございます。おやすみなさい」ともう一度お辞儀をした。  磨りガラスを締め、彼女の気配が遠のくと、深く息が漏れた。もう午前0時半。どっと疲れた気がする。シャワーを浴びてさっさと寝よう。もう明日のことはあまり考えられない。  少し磨りガラスの向こうで動く影が見えたが、大丈夫、レベルの低いモンスターだ。無視して問題なし。
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