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冬休み前
あの砂崎の鍵なし事件から1週間。俺は早速大学、というより豊橋先生の洗礼を受けることになった。
大学の主要な教室や学部ごとの(豊橋先生曰く)押さえておくべき教授の名前と顔が一致した頃だった。
ルーティーンになりつつある豊橋先生と吉沢先生との朝の挨拶兼コーヒータイムで突然申し伝えられた。
「安藤、お前ちょっと今日悪いけど昼から3年の授業、代理でお願いしていいか」
「へ?」
先生の好きなコスタリカのどっかの農園の浅煎りコーヒーを丁寧にハンドドリップで淹れている背後で豊橋先生が言った。
「何素っ頓狂な声出してんだよ」
笑って俺の肩をポンと叩く。
「え、俺ですか」
「他に誰がいんだよ」と言いながら、マイカップを俺の手元から取り上げた。
「いや、だって急すぎません?」
「だーいじょうぶ、言ってもほとんど砂崎と大橋の研究内容の相談に乗ってやるだけだから」
吉沢先生もカップに口を付けながら頷く。
「私も豊橋先生も、教務主催の急な会議が入っちゃって。別に出たくもないんだけど、助成金の話が絡んでるみたいだからー」
軽いタッチで言いながら、何やらバインダーのようなものを手渡される。
「これ、舞ちゃんの進捗が少しまとまってるから」
やけに薄いその紙資料を挟んだバインダーを開いてみると、大橋が自分で書き起こしたようなレポートが数枚綴じられていた。
「一応伝えておくけど、舞ちゃん最近バイトで忙しいみたいだから、あんまり前に進んでないの。春から卒論研究始めるって言ってたけど、ちょっと心配なの」
てへ、と年甲斐にもなく若い振りして頬に手をやる。いやほんと全然可愛くないから。せめて綺麗な路線でいって欲しい。
豊橋先生は最近買ったAppleウォッチを触りながら、続ける。
「いや、なんだ。まあ、そういうことだからよろしく頼むよ」
「そういうことだからって…」
俺の朝の優雅なコーヒータイムは一気に興ざめする。
「それで、砂崎さんはどんな感じなんですか」
「あ、ちょっと待って、今脈測ってるから」
目を瞑り、静かに呼吸を整えている様子だった。
「いや、さっきも測ってましたでしょう」
俺のツッコミは虚しく部屋に響くだけで、しばらく強制的に黙らされた俺は、あえなく教授たちの代理授業を受け入れさせられる格好になった。
そして、左腕の計測結果を確認し、豊橋先生は「砂崎香奈に関して言えばだね」といやに渋い声で切り出しながら神妙な顔をする。
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