冬休み前

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 それはもう静かに、足音も立てず、そして何事もなかったかのように、砂崎は教室に入ってきた。そして大橋の後ろの席に溶けるようにして座ると、前を向いた。 「お前さ、なんか一言ぐらいないの?」  きょとんとした顔で、俺を見上げる。そうだったこの顔この顔。  大橋は砂崎の何か一言を待っているようだったが、妙に沈黙が続いて痺れを切らし、振り返ってコメントした。 「香奈、安藤先生なんか怒ってるよ」 「いや、怒ってはないけど。遅刻だろう」  そこまで言うと、砂崎はまるで何かを思い出したかのように口を開く。 「ごめんなさい、先生」  目を丸くして少しはにかんで謝る。気持ちは、こもってなさそうだ。 「まあ先生も遅刻したしね」と大橋が足すと「そうなの?」と2人で顔を見合わせた。 「とにかく、俺が今日先生たちの代理なんだ。一応この時間で2人の研究の進捗とか今後を確認するように仰せつかってるから。近況トークも兼ねてよろしく」  そう言うと、2人はごそごそと鞄からノートを取り出す。 「私、豊橋先生の随伴経験の宿題発表あると思ってたんだけどなあ」 と大橋は言いながら、キンキョーキンキョーと呟く。 「なに?随伴経験の宿題って」 「なんか、香奈が行動について研究進めるって言ってたから、1年の時に講義してた随伴経験の話をさらっとしてくれてたの。実体験で振り返ってみて、次紹介し合おうって話をしてたから、準備してたんだけど」  大まかには、随伴経験は、対人関係において自分の努力がそれに見合うだけの成果につながる経験を指す。せっかくの行いが裏目に出るような場合は、非随伴経験と言う。俺も昔豊橋先生の講義で習った。 「面白そうじゃん、発表してよ」  そう言うと大橋も砂崎もノートをめくり、何やら手短に書いてある実体験を紹介してくれた。
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