第八章

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とりあえず、高橋千佳という女性に会うことが第一歩のように思われるが、果たして示談交渉に応じてくれるだろうか。 そんなことを考えながら事務所へ戻ると、席に座るやいなや克哉さんが話しかけてきた。 「倉科示談頼んだでしょ?病院名連絡来てるけど、この後行ける?」 「今からですか!?」 示談交渉は、通常検察に対して加害者が示談を希望している旨を伝え、検察が被害者に対しそれを連絡、被害者の同意を得られれば弁護人にその連絡先が教えられるのだが、入院中の病院の名前を、それもこんなに急に言われるなど聞いた事がなかった。 「んー、今からていうか、正確には十八時過ぎもしくは明日以降って言われてんだけど、今晩用事ある?」 腕時計を見る。 十四時を少し回ったところだった。 弁護士会に接見の報告書を送ってから示談手続きの準備をすることを考えれば、むしろそのくらいの時間はもらえた方が嬉しい。 「いえ、大丈夫です」 「よし。じゃあこれ病院名。その頃には一般病棟の方に移ってるだろうって話だったから、病室は受付で聞いて」 「はい、わかりました」 俺は克哉さんから病院名の書かれたメモを受け取った。 「その病院」 「はい」 「いや、やっぱいいや」 克哉さんは言いかけた言葉を飲み込む。 「何ですか?」 「いい。気にしないで」 どうしたんだろう。 気にしないでと言われても気になるものだが、当の克哉さんが自身の業務に戻ってしまったので、俺は言葉の先を聞かぬまま、ペンを動かした。
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