第九章

7/32
前へ
/507ページ
次へ
「善人」 母さんの一周忌のために、父さんが住職と懇意にしている寺を訪れていた。 事件解決の目処がついたとはいえ、本来ならばこんなところに来ている場合ではないのだが、周囲の人間がこぞって俺を法事に行かせようとしたことの背景には、父さんが元警視総監であることがあるに違いなかった。 親の七光りで優遇されることに苛立ちを覚えていた時代もあったが、今ではそんなことは思わない。 他人は他人だ。 好きにやればいい。 「善人、先日メールでも送った縁談の話だが」 「よしてください、こんな日に」 「じゃあ今日でなければ聞くのか。違うだろう」 父さんの言葉は正しい。 正直、自分が誰かと結婚するなんて考えたこともない。 大学生の頃に一度だけ女性と交際したことがあるが、それっきりだ。 俺の空間に人が立ち入ってくるなど、虫唾が走る思いだ。 母さんが亡くなったのは昨年の夏のことだ。 前兆はあったし、正直驚きもしなかった。 還暦を迎えた人間の死などそれほど悼む事とも思えないが、その感覚が世の中の常識と乖離していることくらいは理解している。
/507ページ

最初のコメントを投稿しよう!

75人が本棚に入れています
本棚に追加