第十章

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少し近づいて彼女が読んでいる本の背表紙を覗き込んだ。 夏目漱石の『こころ』だった。 一年以上前になるが、読んだことがある。 失恋のために死を選ぶ「K」の心境が理解できないと思ったが、今でもやはり、彼のこころは僕にはわからなかった。 彼女の手の中にある紙面の厚さを見ながら、ちょうど「K」が自殺をしたあたりだろうかと推測する。 彼女には、「K」の気持ちがわかるのだろうか。 ねえ、と声をかけたい衝動にかられたが、ぐっと堪えてその場を後にした。 それから、週に何度か彼女を見かけるようになった。 いつも同じ席で閉館まで本を読んでいる彼女の手にあるのは、決まって夏目漱石の本だった。 そろそろ漱石の本も尽きてきたのではないかと思ったら、彼女はまた『こころ』を読んでいた。 何度か彼女の近くに座って本を読んでみたが、彼女は決して僕の存在には気付かなかった。 というよりも、彼女が本を読む間、彼女と外の世界は完全に分断されていたのだ。 僕は彼女について想像を巡らせた。 身なりは整っている。 おそらく家庭はお金持ちだろう。 ではどうして遅くまで図書館にいるのか。 家にいたくないからという答えを求めたのは、僕の願望だったかもしれない。 彼女が現れてから、僕の人生にわずかに光が差した。 父に殴られても、家を追い出されても、学校でクラスメイトに蹴られても、トイレで水をかけられても、図書館へ行って、いつもと変わらず彼女が本を読んでいるのを見るだけで、不思議と救われたような気がした。
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