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少し近づいて彼女が読んでいる本の背表紙を覗き込んだ。
夏目漱石の『こころ』だった。
一年以上前になるが、読んだことがある。
失恋のために死を選ぶ「K」の心境が理解できないと思ったが、今でもやはり、彼のこころは僕にはわからなかった。
彼女の手の中にある紙面の厚さを見ながら、ちょうど「K」が自殺をしたあたりだろうかと推測する。
彼女には、「K」の気持ちがわかるのだろうか。
ねえ、と声をかけたい衝動にかられたが、ぐっと堪えてその場を後にした。
それから、週に何度か彼女を見かけるようになった。
いつも同じ席で閉館まで本を読んでいる彼女の手にあるのは、決まって夏目漱石の本だった。
そろそろ漱石の本も尽きてきたのではないかと思ったら、彼女はまた『こころ』を読んでいた。
何度か彼女の近くに座って本を読んでみたが、彼女は決して僕の存在には気付かなかった。
というよりも、彼女が本を読む間、彼女と外の世界は完全に分断されていたのだ。
僕は彼女について想像を巡らせた。
身なりは整っている。
おそらく家庭はお金持ちだろう。
ではどうして遅くまで図書館にいるのか。
家にいたくないからという答えを求めたのは、僕の願望だったかもしれない。
彼女が現れてから、僕の人生にわずかに光が差した。
父に殴られても、家を追い出されても、学校でクラスメイトに蹴られても、トイレで水をかけられても、図書館へ行って、いつもと変わらず彼女が本を読んでいるのを見るだけで、不思議と救われたような気がした。
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