第十章

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「いや、別に、いいけど」 「ほんとですか」 今日ほど幸せな日は一生来ないのではないかと、本気で思った。 「よかった」 高橋さんと並んで、塾の外へ出る。 高橋さんが傘を持っていなかったことが、僕の後悔をほんの少しだけ和らげてくれた。 傘の中に僕と高橋さんが並んで入る。 高橋さんを濡らさないように傘を傾けたことで、僕の左肩が雨に濡れたが、まったくと言っていいほど気にならなかった。 何か話さなくてはと必死に考えた末に最初に出てきたのは理科の選択科目を問う質問だったが、これに対して何故だか高橋さんは笑った。 笑ってくれた理由はよくわからなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。 「夏目君って、面白いね」という彼女の言葉に、僕は内心で舞い上がっていた。 他愛のない会話に、心から幸福を感じる。 今日まで生きていてよかったと、そう思った。 「夏目君って友達いるの?」という彼女の質問は、僕の心をちくりと刺した。 「失礼なこというね。これでも学校じゃ結構人気者なんだよ」 今日だけ、今だけ、ほんの少しの嘘を許してください。 彼女の前でだけでいい、普通の、どこにでもいる人間になりたかった。 「じゃあ、また」という言葉は、僕の願望だった。 彼女と話している時間が、一生続いて欲しいと願った、僕の願望。 また、次があったらいい。 そう思わずには、いられなかった。
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