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わずかに記憶に残っているのは、その手のぬくもりだけ。
写真で顔を見たって何も思い出せないけれど、母の死の原因が自殺であったことは何となく察しがついていた。
父の暴力が母へも向けられていたのかどうかは記憶になかったが、しかし屈折してはいても確かに母を愛していたのだということは幼心に感じていた。
隠してはいるが、父が毎年母の墓参りに行っていることを僕は知っている。
「お父さん、働いてないの?」
「うん。いつも、女の人と遊んでいるだけ」
「一人で、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
その言葉は、さよならの合図だった。
意識が朦朧として、自分が何を話しているのかよくわからなかった。
しかし、それでも、高橋さんが去るまでは平静を装わなくてはならない。
「じゃあ、お先に」と高橋さんは駅へ向かって踵を返す。
二歩、三歩と彼女の背中が遠ざかるにつれて、気持ちが緩む。
ふっと力が抜けて、思わずガードレールに寄りかかった。
「夏目君っ」
高橋さんの声が聞こえた。
これは現実?
それとも幻想?
「たかはし、さん」
声を絞り出すと、「夏目君、なんで」という高橋さんの声が頭上から降ってきた。
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