第二章 3月9日 高田 智子

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「うっ……!?」  眼に飛び込んだその光景を認識する前に酷い吐き気が彼を襲った。  胃の奥深くからえぐる様に込み上げるものに堪え切れず、彼は研究室の隅で咽びながら嘔吐した。  一体何が起こったのだ……どうすればああなるのだ……!?  あまりの衝撃に耐え切れず彼はその場で気を失った。  その後どれくらい時間が経ったのであろうか。  巡回の警備員が、倒れている彼と研究室の異常を発見し警察に通報したそうだ。  後の警備員の話は悲惨そのものであった。  元自衛隊員で戦地へ赴いた経験のある彼でさえ、その現場はあまりに壮絶で恐怖そのものであった。  彼は明かりの灯る開けっ放しの研究室を覗き混むと、あっと声を漏らし眼を見開いた。  男がひとり倒れているじゃないか。  それに酷く血臭が立ち込めている。  何事かと慌てて男に近付いた刹那、右方に水が滴る音と不気味な空気を感じ、ゆっくりと彼は首を回した。  そして彼は見たのだ。  窓側の壁と机の間という僅かな空間に、この世のものとは思えない程の光景を。  彼の足元の少し先には赤黒い水溜まりが出来ていた。  その水溜まりの元を辿ると……人間の足だ。  男用と思われる真新しいスニーカーが赤く染められている。  心臓が次第に強く脈打つ。  その先にあるものは……考えただけでも吐き気がする。  靴から見て足のサイズは26、27といったところか。  おそらく体重は60キロから70キロ。  出血量からすると確実に致死量だ。余程の傷を追っているに違いない。  ……この先は見るべきではない。  このまま引き返して警察に電話をすればいい。  血まみれの中に男の足が見えるだけで十分状況は理解できる。  誰かがあそこで息絶えているのだ。  一刻も早くこの場から立ち去りたい。  何かただならぬ、嫌な予感がする。  毛穴という毛穴全身から嫌な汗が吹き出し、底無しの寒気が彼の思考を低下させた。  と同時に、この男はどうなっているのかという疑問が彼の頭を過ぎった。  戦地ではいくつかの死体を見てきた。  銃撃にあった兵士の死体、爆撃にあった市民の死体。  どれも凄まじい光景であった。  が、それは戦場での話だ。  この日常的空間で、それらに匹敵する血液が流れているこの死体は一体……?
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