第二章 3月9日 高田 智子

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 一瞬、ほんの僅かな一瞬だが、男の眼と警備員の眼が合った。  恐怖に大きく見開いた瞳にじっとりと睨まれた気がしてならなかった。  逃げる様にそのまま後ずさり様子を伺う警備員。  彼の心臓は限界以上に速度を増し、激しく彼の胸を叩き付けた。  一秒、ニ秒。  動くかと思った。  映画の様に有り得ない角度に間接を曲げ襲ってくるのかと。  だが死体はやはり死体だ。  それ以上動く事はない死体を茫然と見つめながら、彼は携帯電話を取り出し受話器を耳に当てた。  この事件はすぐに全国に流れ、一時話題となったのは言うまでもない。  捜査に当たった警察や検察は、この猟奇的な死体を誰もが他殺だと睨んだが、鑑識の出した答えはそうではなかった。  自他殺どちらの可能性も有り得る。  そればかりか、死体の切り口や包丁の指紋などの物証から、自殺の可能性の方が高いとされたのだ。  どう考えてもおかしな結論だ。  首を吊りながら自らの身体を切り刻み、さらには内臓を掴み引きずり出すなど、一体どんな人間の所業なのか。  そんな事が出来るのであればそれはすでに人間ではない。  だが、この事件が本当の波紋を呼んだのは、その凄惨さ故ではなかった。  事件の二日後。  第二発見者の警備員が自宅で死体で発見されたのだ。  洗面台の前で裸のまま倒れていたらしい。  喉元を激しく引っ掻いた跡がある以外これといった外傷もなく、家も密室状態であった事から、自殺あるいは急性の病死という見解がなされた。  顔面の変色、その他の特徴からおそらく死因は窒息。  だが何が原因で窒息状態に陥ったのかは不明であった。  それだけならまだいい。  それくらいの不可思議な原因不明ならまだいい。  異常は司法解剖の後現れた。  腹部を開いた検死官はさぞ驚いたであろう。  なぜなら彼の内臓は、尋常ではない程にズタズタに裂かれていたのだから。  喉の引っ掻き傷から窒息して死んだ可能性は非常に高い。  それならば多少の臓器の損傷は有り得る。  大道脈などの気道が塞がる事により内部の圧力が変わり、臓器が鬱血したり破裂したりする事はある話だ。  だが、これはそういうレベルではない。  まるで使い古されたぼろ雑巾か、あるいは烏に啄まれた鼠だ。
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