序章 6月25日 赤家京子

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 どうしていいか分からなかったが、ひとまず車の中へ戻る事にした。  次第に強くなる雨にフロントガラスにこびりついていた血の跡が流されていく。  数秒後には何事もなかったかの様に綺麗に消えていた。  心臓の音が耳の奥底をドンドンと叩いている。  ……どうすればいいのだろう。  人をひとり撥ねた。  それは間違いない。  だが、肝心のその当人がいない。  血の跡も雨が消してしまった。  車のフロントはどうなっているだろうか。  何かにぶつかった痕跡は残っているのだろうか。  ……証拠は何もないのではないだろうか。  京子は大きく深呼吸をひとつすると、ゆっくりとアクセルを踏んだ。  この先を少し行けば少し広い迂回路がある。  そこでUターンしよう。  被害者はいない。  目撃者もいない。  ……何もなかったでいいじゃないか。  きっと悪い夢でも見ていたに違いない。  京子は迂回路を利用してUターンし、元来た道を戻った。  数分。  例の事故現場だ。  無意識にアクセルを踏む力が強まりスピードが上がる。 「はぁ……」  通り過ぎてから安心した様に大きく息を吐き出す。  誰もいなかったし、何もなかった。 「きっと疲れてるんだわ……」  カタカタとエアコンが鳴った。  相変わらず生温い風を吐き出している。  明日スタンドに見せに行こう。  ちらりと視界の片隅のバックミラーに、後方車のヘッドライトがきらりと輝いた。  この道は車道が広いせいか割とスピードを出す車が多い。  嫌だなぁと思いながらバックミラーに目をやる京子。 「ひっ……!?」  バックミラーを見たまま、彼女は息をするのも忘れ硬直した。  見なければ良かった。  そうすれば、こんなものを見る事もなかったのに。  誰もいないはずの後部座席。  所々うっすらと赤く染まった白いワンピースにかかる、しっとりと濡れた長い黒髪。  顔面を覆う黒髪から覗く異様に白い肌。  隙間から凝視する赤く血走った濁った眼。  京子が後部座席に見たものは、じっと彼女を睨み付ける女の人影であった。  背筋が氷の芯に突き刺されたかの如く凍り付いた。  心臓が生を手放すかの様に動くのをやめた。  肺が酸素を拒絶したかの様に呼吸が出来なかった。  眼の前の光景を脳裏に焼き付けるが為に瞼が動かなかった。  京子は目を見開いたままゆっくりと後ろを振り返った。
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