匂い

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我が家は様々な匂いがした。 商売をしている家らしく、常にピンと貼られた障子の、 和紙と糊の混じった、 スッとする匂い。 林場から溢れる、蒸せ返るような材木の匂い。 奥の和室の床の間に飾られた、古い掛軸と活け花の匂い。 祖父と将棋を指しに来る老人たちの、 薄くなった白髪を撫で付けたポマードの匂い。 彼らが食べる茶菓子の煎餅の、香ばしい醤油の匂い。 指先についた、鈴カステラのまわりの砂糖。 事務所の古い床板は、くすんで土の匂いがする。 日捲りの横にある傷だらけの黒板からは、 チョークの甘い匂いがする。 父の机と向かい合わせに置かれた祖父の机からは、上質な墨の匂いと、梅仁丹の匂いが混じり合う。 靴を脱いで居間に上がれば、台所からは、祖母の炊く煮豆の湯気が漂い、 それに負けないほどの良い香りは、 祖母の作る柚子皮の砂糖漬けから拡がっていた。 台所の隅には、蒸かした芋を潰した手製のホウ酸団子が、表面を干からびさせている。 朝夕には、和室の仏壇から線香の清々しい匂いがする。 縁側に置かれた大きな藤の揺り椅子は、 ほんの少しばかりの汗と、そしていつまでも木の匂いが残っていた。 揺り椅子の対面には一人掛けの古びた回転ソファがあった。 その裏には蜜柑や林檎の入った箱が必ずあって、 甘酸っぱい匂いを嗅ぐことが出来た。
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