第零章

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世の中、というものは、等価交換で成り立っている。 たとえば、『サッカーが上手くなる』という事象を得る為には、『サッカーに充てる時間』という事象を代償にしなければならない。 人間が、最も安価に支払える代償は、金、ではなく、時間だ。 逆に、最も高価な代償は、己の命、と言える。 高価な代償は基本的に、一人につき一つしかないものばかりだ。 まあ、当たり前である。言ってみれば、その人の一部を代償にするという事なのだから。 ビジネス界ではWIN―WIN(別にビジネスに限った事ではない)という言葉もあるが、これは、他人の協力のもと、という条件が加わるからであって、独力ではやはり原則等価交換だ。 人は皆、生きる為に、自己の興の為に、何かを犠牲にしている。 ところで俺は、このあいだ、変わったものを犠牲にした。 その理由は、恋。自己の感情の為。 そう。俺はある日、一人の女性に恋をした。 一目惚れだった。 突如、俺の前に現れて、嬌羞を浮かべて、こう言ったんだ。 「妾と、一緒に生きてはくれぬか?」って。 精一杯の笑顔で。 悲しみを含んだ、儚げな笑顔で。 古風な、或いは場違いな言葉遣いは気にならなかった。 ただただ見蕩れていた。 俺は訊ねたかった。 ――どうして、そんなに悲しそうなのか。 ――どうして、その悲しさを隠すのか。 いや、訊く必要は無かった。 理由など、分かり切っていた。 だから俺は、こう答えた。 「ああ」 と。 たったの二文字に込められた想いは重い。 儚く揺れる雛罌粟(ひなげし)のような彼女を守りたかった。守ると誓った。 そんな重さだ。 今思えば、とんでもない決断だった。或いは、拙速だった。 それこそ、馬鹿にされてもおかしくない程の。 それでも構わなかった。 それ程に、彼女の隣に居たかった。 そんな望みを叶える為、俺は代価を支払った。 彼女はもう一度問う。 「妾と、一緒に生きてくれるか?」 今度は確認。 だから俺も、もう一度答える。 「ああ」 俺はこの日、愛する女性の隣に立つ為、人間である事をやめた。
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