期間限定の慟哭

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アレは、僕が素数を覚えた頃の話。 その頃は母も元気で、車椅子も必要なくて、僕たちは二人、真夏の遊歩道を、セミの鳴き声をBGMに歩いていた。 麦わら帽子に逆光が当たり、母の表情は覗きにくかった。 けど、思い返せばいつだって、母は笑顔で僕を見てくれていたのだから、たぶんその時の母も笑顔だったのだと思う。 目的はなんだったのだろう。 忘れた。 たぶん、買い物帰りとかだ。 荷物を持つ小さな甲斐性を発揮した記憶があるから、きっと、そうだ。 少し歩いていると、素朴なラーメン屋に出くわした。 母は僕の手を軽く握り、「お腹空いたね」と呟いた。 僕と母はそのラーメン屋に入った。 暖簾を潜って見えた先は、やはり慎ましかった。 僕と母は日光の当たらない端の席に座った。 テーブルを挟んで、向かい合わせになる。 母はキラキラと目を輝かせ、メニューを捲った。 今にして思えば、母は歳の割に随分と無邪気だった。 僕は早々に味噌ラーメンを頼む。 それが好きだから、というよりは、それしか知らなかったからだ。 「また味噌ラーメン?」母がそう言ったのを覚えている。 ぼくはなんて言い返したのだろう。「地雷は踏みたくない」的なことを言ったような気がする。 なんか凄くカッコつけたような気がする。 母はそれでもやはり笑顔で「じゃあ私は」そう言って、冷やし中華を頼んだ。 冷やし中華。 初めて聞く食べ物だった。 名前から察するに冷やした食べ物なのだろう。 具体的に言えば、ぶっかけうどんの冷たい奴と同じ類いか。 やがて目の前に運ばれた冷やし中華と味噌ラーメン。 母が嬉しそうに箸を割る中、僕は冷やし中華を凝視した。 笑顔の母が「食べる?」と聞いてきた。 僕は一言「いらない」と返した。 「美味しいよ」母がそう言う。 「いらない」僕がそう返す。 麺を掬いながら母が言った。「今度作ってあげるね」 「いい」僕は素っ気なく呟いた。 「どうして?」母が笑顔で問う。 「どうしても」僕は罰が悪そうに返す。 母が首を傾げる。 僕は味噌ラーメンを啜る。 母は知らなかった。 僕が、冷やし中華の上に鎮座したある食材を、とてつもなく苦手としている事実。 それが組み込まれただけで、あらゆる料理が下手物にしか見えなくなる事実を。 そして僕は知った。 僕が冷やし中華を食べる機会は、今、永遠に失われたのだと。 聞いてないぞ。 椎茸乗ってるなんて。
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