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黒いガスマスクの下、煤けたレンズを通して見える世界はいつだって無彩色だ。
ひと月止まなかった土砂降りの雨のせいで水嵩は大人の腰の高さまで増していた。こんなことが起きたのは初めてではないけれど、少し移動するだけでも舟を使うしかない。
なんの飾りもついていない、木製の粗末な舟の上。甲板の下には適当に荷物を詰め込んだボストンバッグが窮屈そうに収まっている。
僕は自分の呼吸音を聞きながら、手に持ったオールでゆっくりと水を掻いた。人が通らないまま何週間も放置されたためか、水を抉るようにかき回すたび、底に沈殿した泥が渦を巻いて水を濁す。同時に水面に放射状の波紋が穿たれ、乗っている舟が少しずつ前に進んでいく。
水に飲み込まれた街の中、自分以外に人間の姿は見受けられない。蜘蛛の巣のように幾重も張り巡らされた電線には蔦が絡み付いてとうの昔にその機能を失っている。
水が浸食した外壁は溶け崩れて運搬され、木造の建物は腐り落ちて見る影もなくなっていた。看板や標識もすっかり錆びつき、どんな模様が描かれていたのか判別すらできない。僕はガスマスクが耳にしっかりと固定されているか確認してから、白いレインコートのフードを深く被り直した。
腐敗した建物によって線引きされた道のあちこちに濃灰色の塊が佇んでいる。正確に言うとそれは緑色をしていて、細く鋭い棘が生えた、太く強靭な蔦の塊だ。薔薇によく似た花と葉を付ける蔦が、何かにびっしりと巻き付いてあちらこちらに佇んでいる。茎が水に浸かっても腐ることはなく、その葉は瑞々しさを保ったまま水面に影を作る。
僕は、正しくは僕たち生き残りはこの植物の塊を、蚕のそれさながらの見た目から『繭』と呼んでいる。
ビルに飛行機が突っ込み、世界規模の水不足やあちらこちらで大きな戦争が起こってから数百年。世界は水に侵食され、植物に包まれていた。
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