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 舟を漕ぎながらちらりと一つの繭に視線を投げる。  びっしりと生い茂った蔦の中に、目を固く瞑った少年の白い顔が埋もれていた。身体は棘付きの太い蔦に覆われ、その隙間からは穏やかに眠っているような顔と厄除けのピアスがついた右耳しか見えない。  静かに目を閉じているその顔は、声を掛ければすぐに瞼を開きそうだ。蔦の間でぽつぽつと咲く白い花に彩られているからか、精巧に作られた置き物にも見えてしまう。いつの間にかそれに視覚と思考を奪われていたことに気付き、僕ははっとして視線を逸らした。  ……急いでるんだった。少年に心の中だけでお別れを言いつつ、再びオールを動かす。瞬間、ぐん、と微かな反動と共に舟が少しだけ後退した。水面を覗いてみると、先程よりも小さな繭が舟に引っ掛かっていた。蔦に覆われている小さな少女の頭が水に煽られて揺らいで見える。  その繭をオールで軽く押し、舟の軌道を逸らす。地面にしっかりと根をはっているそれは石のように硬く、支えにして軌道を変えることに力はそれほどかからなかった。  この植物が世界中を恐怖に引きずり込んだのは今からほんのふた月前のことだ。  百何十年前から問題視されていた、しかし食い止めることが出来なかった地球温暖化によって新種の生命体が生まれ、それは瞬く間に世界中に広がった。  人間に寄生し、その養分を少しずつ少しずつ吸い尽くして繁殖する種。感染するのは人間や猿といった霊長類だけに限定される。花が撒き散らす種子を吸い込むことによって感染するらしい。  およそふた月前、種子は風を引き連れて、僕が住む街にも降り注いだ。ひとつの種子の効力は1時間程度、なのだが、その時外にいた人はほとんど全員犠牲になった。感染すると身体中から蔦が伸び、瞬く間に地面にその根をはって宿主を包む。現に僕も目の前で、母親と弟が寄生されるところを見た。  種子はそんなに細かなものではなく、感染者から生えた蕾や花に触らなければ空気中に飛散することもほぼ無い。マスクをしていれば充分に防げるものだった。研究者がそれを解明したときには既に国民の半数以上が感染し、街はこの蔦に覆われていたのだけれど。  この2か月で、蔦は街から人間の姿を――なによりも僕から家族という存在を消した。ずっと続いてきた生活や文化や文明がたった1種類の植物にいとも容易く滅ぼされるなんて、誰が想像しただろうか。  
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