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『海が近い町』
長い時間、移動ということもあり、また、車内の揺れが気持ちよくて、私は眠っていた。半分程空いていた窓から入ってきた、磯の香りで目が覚める。それとほぼ同時に、目的地に着いたようで、車のエンジン音が切れた。前の座席にいた母が、私に声を掛ける。
「起きた? ほら、着いたわよ」
どの位の時間寝ていたのか、皆目見当つかないが、重たい腰を起こし、車からおりるためにドアを開けた。開けてすぐ入ってきたのは、磯の香りのする潮風。そして目の前に差し出されたのは母の手だ。
「ほら、気をつけてね」
「……別に、自分で降りられるから、大丈夫」
車から降りる動作そのものに、身体にひどく害を与える何かがあるわけでもないのだけど、そうさせてはくれない。大人しく従い、母の助けを借りながら、私はゆっくりと車をおりた。
右手のほうに目線を移すと、テレビ等で見るような白い砂浜と、穏やかに波立つ青い海が視界いっぱいに広がっていた。
「海……」
「あらぁ~本当に綺麗な海が近い病院なのね」
最後に海に行ったのがいつだったのか、私は思い出せない。それほど、この目に海というものを映していなかったのだろう。
夏の足音が聞こえてきそうな程、照りつける陽が眩しい。
私が、これからこの町で生活することを歓迎しているかのように、空に浮かぶのは太陽ただひとつだけ。雲ひとつない澄んだ青空とは裏腹に、私の心は晴れ間が見えぬほどの曇り空だ。
先のことを考えれば考えるほど、頭が痛くなる。
左手のほうに視線を移すと、海沿いに佇む清潔感溢れる白い建物が目に入ってきた。ここが、これから私が生活する病院、というわけだ。
人通りが少なく、通り過ぎる車の数も僅か。騒ぎだとか事件だとか、そのようなものとは無縁と思われるような閑散とした町。
私が今まで住んでいた場所とはまるで正反対の、海が近い静かな町だった。
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