明けの方から厄介事が舞い込んだ(前編)

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『ハイハ~イ!今日も残念ではありますが、お時間の方が来ちゃいました!それでは最後の曲です。いや~、このバンド好きなんですよね~!ボーカルのペオース姐さんがも~、同性なのに惚れちゃいそうな位かっこよくて!いつか私に曲書いてくれないかな~、なんて!ではでは、Ash Beastで…』 男は舌打ちしながら、ラジオのスイッチを切った。 また、自分のリクエストが無視されたらしい。 毎週欠かさず、手紙を投稿しているのに、あの猫又のアイドルは無慈悲にも小市民の細やかな願いを黙殺しているという訳だ。 可愛い顔して、とんだ食わせ物だ! 中身は道端の娼婦が裸足で逃げる位のアバズレに違いない! 男はガスコンロにヤカンをかけて、火を点ける。 そして、戸棚から街で一番安いインスタントコーヒーとガムシロップを取り出す。 このムカつきはカフェイン摂取で落ち着かせるしかない。 いや、カフェインに神経の鎮静作用なんか無いんだけど、まあそんなのは些細な事だ。 要はコーヒーが飲みたいのである。 行きつけの喫茶店に足を運ぼうか、とも思ったが、外は生憎の雨模様。 こんな時は客足が途絶える。 さもありなん。自分だって外を出歩くのが億劫になるもの。 ヤカンからシュンシュンと音を立てて、湯気が出始める。 男は流しで、歯磨き用のコップを軽く濯いで、それにコーヒーの粉末を入れる。 そして、沸き立ったお湯を注ぎ、ガムシロップを入れ、スプーンで掻き混ぜる。 ミルクは使わない。 だって、乳製品が苦手なんだもの。 男はコップからのコーヒーの香気に満足しながら、一口啜る。 「うん、旨い」 男は笑みを浮かべるのであった。 彼の名は稲田貴一(いなだたかかず)。 「きいち」と呼ばれるとムッとする23歳の青年である。 女形も裸足で逃げ出す程の女顔で、艶やかな黒髪を腰の辺りまで伸ばし、端を輪ゴムで結んでいる。 そんな女性的な容姿なのに、発する声質は重低音。 そのギャップに驚く人も少なくない。 彼は、町外れで整体士を営んでいる。 まあ、繁盛してるとは言えない。 だが、彼はそれを飯のタネにしている訳では無い。 この不自然な街である意味必要な稼業。 所謂、仕事人紛いの事をして、生計を立てているのだ。
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