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何かが胸の中に流れ込んでくる。あの女の姿に触発されたが故に液化した殺意だ。
ふと思った。この女を殺してしまおうか――と。その思考回路は狂っているとしか言いようが無い。
……その時だ。視界がまばたきの内に変わっていたのだ。
俺は数十分前にも出会った下駄箱に手を突いていた。
心臓の音に合わせて脈打つ血管は、眼球をも揺れ動かしている。今はどんな気分かどうか問われたとしたら、「嫌な感じだ」と即答するだろう。
俺は走っていたのか? それとも歩いていたのか? あの女には何か言われたのか?
思い出せない。ただ、がむしゃらに逃げていた事だけは分かる。あの女から、あの黒い瞳から、あの存在から。
辺りは尚も静けさを保っているが、この静寂はひどく冷たかったあの黒髪の女の傍と大分かけ離れた温度差があった。
あの女が着いてきていないか辺りをぐるぐる回る視線は、時間と共にその範囲を狭める。体の芯まで凍てつくようなあの威圧感は、やはりあの女が放っていた物に違いはないようだ。
長すぎるこの前髪ですら阻むことの叶わないあの姿は、記憶にだけでなく身体中にも抉り込まれていた。
恐らく次からは、直感も何も関係無しに体が勝手にあの女から離れていくだろう。つい先程のように。
徐々に霞んでいく動悸は、それまで意識した事の無かった鼓動を直に実感させてくれた。
まるで今まさに自分が産まれたかのような、現在までの記憶が全く無かったような――
「……」
内履きを下駄箱に放り込み、外履きを足下に落とす。息を整える事など歩きながらでもできる。
心臓は既に落ち着いており、余裕綽綽としたリズムを叩いている。少しは肺の気持ちも汲んでやれば良いものを。
いそいそとその場を後にすると、一斉に注いでくる光が体を灼いた。青々とした木の葉は風に吹かれ、地を走っている。
雨上がりだからか、アスファルトは生乾きの肌をさらしている。これよりすぐに沈むであろう太陽は、果たして日没までに彼を完全に乾かす事ができるだろうか。
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