0.触穢へのペレストロイカ

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   ここまで来て、心配の種が一つあった。  あの空白の時間の中、本当に俺は逃げる事しかしなかったのだろうか? 他に何もしようとしなかったのだろうか?  ……俺はあの女を殺してはいないだろうか。あの時感じた理由もない殺意のままに、一人の命を殺めてはいないだろうか。  その答えを知りたくば、今すぐ校舎へと引き返して確かめればいい。それなのに、心なしか体がそれを拒んでいるような気がした。  手の甲では、乾ききっていない血が夕陽に照らされている。本当にこの血は、俺だけが流した物なのだろうか。  再び血が滲み出した口の端。本当にそれは俺だけが流した物なのだろうか。  ……自分自身が信用できない。頭の中には、血の絨毯の上で冷たくなる黒髪の女の姿しか浮かばない。  夕陽の中、生ぬるい風がひゅるりひゅるりと踊っている。無機質な町並みで動いている物は、それに揺られる長い前髪だけだ。  軽自動車が三台は並べられるほどの幅を持つ路地は、だだっ広いだけで人通りは疎らである。ここまで来てしまえば、今更振り向いたとしても校舎は見えない。ざわめく心のまま帰宅する他ないのだ。  帰路は延々と続いているような気がした。まるで人殺しを咎めるかのごとく、終わらない旅路を強いられているかのようだ。  あの女を実際に殺してなどいないのかもしれない。寧ろ殺すだなんて気違いじみた事などするハズがない。  ただ、驚くほどに鮮明な想像図が浮かんでしまったのだ。か細いあの首に、白く瑞々しいあの柔肌に、この指が食い込む様が――そして跳ね上がる喉が。  殺していない。俺は誰も殺していない。  指が痙攣していた。足はいつものように坦々と進んでいるというのに、それ以外の回路があべこべになってしまっている。  折角訪れた安堵も、アスファルトのあちこちにできた水溜まりと一緒に気化している。  そんな夕暮れの頃。背後に近付く影にさえ、俺は気付く事もままならなかった。
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