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その長髪を風に遊ばせ、歩道に咲く菊の花を踏みしめる女。八つ当たりだな。
マンガ雑誌などで用いられる擬声語が出たとしても違和感の無さそうなその歩は、天下に百鬼夜行を敷く魑魅魍魎までも裸足で逃げ出すほどに逞しい。
思考の発展の方向が狂った変人とはいえ、顔の造りが完璧だという事は確か。これで彼女の総評はプラマイゼロとなったワケだが、あの背中を見て最終的にマイナス一と化した。
『人は外見だけで全てを判断してはいけない』という格言がある。なるほど、的を射ている。
「阿久根真矢ぁ! 明日は覚えていなさいよ!」
「帰れ」
「死ね!」
会話が成り立っていない。成り立たせる必要性すら皆無だ。
女の姿は視界から消えた。俺の視線が扉を目指したからだ。もうたくさん。
もう何も聞きたくない。そんな気分になれない。疲れた。
人生には山あり谷ありと聞くが、少なくとも俺がこれまで送ってきた数年はなだらかな道であった。だから俺はその格言を信じようとしなかったのだ。
だが今は? あの黒髪の女との出会いから、この瞬間までの歪みは?
ひたすら傾斜を転がり落ちていく。根源が不明な恐れ、人殺しという汚名への動揺、未知との遭遇への憂鬱、耳障りな言々への倦怠――
……なんだよ。あるじゃないか、立派な谷が。
「アンタさぁ!」
この先に山など存在するのだろうか。畦道が永遠に伸びているだけではないだろうか。この女と知り合ってしまった事で、深い谷間をさ迷う生活を強いられねばならないのだろうか。
――冗談じゃあない。塞翁が馬? そんな物、非日常が欲しくて欲しくてしょうがない連中にくれてやれ。余計なお世話だよ。
「帰ったらちゃんと顔洗いなさいよぉ!」
「帰れ」
女の返事は届かない。俺が扉を潜りぬけ、質素な玄関へとその身を押し込んだから。
湿気った風は途絶えた。無音と静態に染め上げられた閉鎖空間は、肺を肥らす酸素さえも乾かした。
まばたきの間に浮かぶは、悪鬼の化身をオーラで象った女の姿。後ろ手に鍵を閉めながら、それが現れる事を俺は予知していた。
明日に落ちるであろう雷を避ける術は無いのだろうか。今度の稲妻は、天気予報も避雷針も役立たない。
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