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蛇口を捻り、真水の飛沫(しぶき)に両手を伸ばす。皐月にもなると、流水が一月前と比べてぬるく感じた。
軽く顔に水をかけ、濡れた手で満遍なくこする。競競とする己を諭すかのように、水は額を撫でていた。
そして脇目に掛けていた白いタオルに手をやり、長い前髪を潜らせて押し当てる。柔らかい繊維の一つ一つに気分が和む。
それが顔から離れる時、俺はすぐに異変を覚えた。
白かったタオルが紅いのだ。正確に言えば薄い薄い紅色があちらこちらに染み込んでいた。
俺は鏡を久々にしっかりと見る。青白い顔の上半分は前髪で隠れてはいたが、それでもすぐにタオルの色の理由を察する事はできた。
口の周りがとんでもないことになっているのだ。血が次から次へと溢れだし、まるで赤いヒゲが生えたかのようだ。
どうやら俺が思う以上に傷は大きいらしい。洗った顔はみるみる内に下手な口紅で汚れていく。
なるほど。先ほどのあのキテレツ女の『顔をよく洗え』という指令の意図が読めた。
しかし、とっくの通りに瘡蓋(かさぶた)になっていると高を括っていたのだが……それだけ傷口が広いというのだろうか。
廊下を振り返れば、点々と続く血の道筋が見える。姿勢の悪さが幸いして、制服は事なきを得たようだ。
こういった時、いつも無痛の不便さに溜め息が出る。この身に起きる危機は、わざわざ視認しなければ気付けないから。
木目の上に打たれた不規則な赤から視線を外し、力無く肩を落とす。やれやれ、雑巾がけは余り好きではないというのに。
――血痕、か。
あの高校からここまでの通学路は、きっとこの足跡が続いているのだろうな。幾ら半乾きのアスファルトとはいえ、血が溶けるほど湿っていないようだったから。
「……はぁ」
溜め息と共に白く曇る鏡。それと同時にまたもや口の端から溢れる紅色。
徒労に現(うつつ)を奪われまいと思い立とうにも、今の俺の頭上には倦怠感のベールしか無かった。
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