0.触穢へのペレストロイカ

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   この日の夕食は、ガーゼと消毒液の香りをオカズに箸を進める事になった。口の端にニセンチほどの裂傷が刻まれていたから、あれほど出血が酷かったのだろう。  薄々予感してはいたが、医薬品の匂いでどうにも食欲が減少してしまう。頬の裏も切っている為、嫌でも鉄の味から逃れられない。  ……痛みが無いだけ、まだマシだと考えるべきか。  三ヶ月前に購入した地デジ対応の二十インチテレビを除けば、居間は殺風景としか表現できない。見慣れた景色だ。  あまりマナーは良くないが、俺は夕飯をつつきながらそのテレビで報道番組を観ていた。  此所で家事ができる人間は――いや、唯一の住人は俺のみ。故に一分一秒を棒に振るワケにはいかないのだ。  食事の時間も例外ではない。天気予報や社会状勢は、食べながらでも視聴可だ。  そうやって俺は生きてきた。そう生きなければ死んでいた。自らが生きる事に精一杯で、誰かに目を配る余裕が全く無かったのだ。  いつしか『他人』という存在を枷としか感じられなくなった頃には、もはや虚無こそが常だった。  身体は生きているのに、『自分は生きている』と誇れなくなっていたのだ。痛みも無く、また心も無い。  俺はどうしたいのだろう。この生活から抜け出たいのか、或いは――  合間合間に挟まれたコマーシャルには、流行に乗った女の顔が何度も現れた。久代(くしろ)……聖華とかいう若盛りな女優だ。  先ほどから繰り返し繰り返し歌手デビュー歌手デビューと、ひっきりなしに推してくる。駄菓子を買う費用さえ惜しむ俺には無縁な広告だ。  節約の為に作られた塩気の無い夕食は、連夜繰り返される。ハンバーグやカレーライス等に充てる材料費は無い。  ……と、もうやめよう。考えるだけ無意味だ。  そもそも俺には『考える』などという概念など無かったではないか。  思考しようがしまいが、その先には同じ物しか塞がっていないのだから。  俺は箸を置いた。それに共に離れるは、ささやかないとま。
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