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「ほら、やっぱり。今度は右を見ている」
「……」
殴られた事もあった。蹴られた事もあった。誰かに触れられた試しは何度もあった。
だが、この手は? 『誰か』ではなく、真っ先に俺は『人』という言葉を浮かばせている。
遠い昔、まだ俺が物心を持つ以前に感じていた――何かが触れている。
視界には車道、その端に同年代の少女。それが伸ばすは、ただの右腕。この程度の制止など容易に振りほどけるというのに、体は動かなかった。
「アンタさ、悔しくないの? あんなに血が出るまで殴られて、痛くないわけないでしょう? 学校にチクればいいじゃない」
「……」
迫る女のセリフに、俺の脚は一気に力が入った。やるせなくてしょうがなかった頭が、冷たく冴えてくるような気がした。
ああ、なんだ。コイツはそんな矮小な噺の為にこんな茶番劇を演じたというのか。興が削がれた。
なんと薄っぺらい壁なのだろう。はりぼてだ、姿形だけは立派な。
悔しいだの、痛いだの……コイツは何を言っているのだろう。俺には理解できなかった。
群がる蟻を理由に、コイツは近寄ってきたのだ。たかだか蟻ごときで。
痛みも無い。増悪するだけの感懐も無い。事を荒立てる諸行も、誰かに身を委ねる事も馬鹿馬鹿しく思っている。
所詮は幻想だったのだ。これまでになく鮮やかに色付いた景色も、たった一人の人も。
俺はきっと、何か無価値な期待をしていたのだろう。でなければ、昨日から今までの説明が付かない。
やはり俺とて人間。ミリ単位でも、感情論は持ち合わせているらしい。まったく、もっと打算的な人間になってしまいたいよ。
「……そんな下らない話をする為に、朝っぱらから付きまとうな」
胸の内で自嘲しながら、俺は暫くぶりに文章とやらを吐いてみた。溜め息混じりで、とてもではないが美しさの欠片も無い曇った声だった。
つっかえ棒の腕は軽々と外れ、その主の脇をすり抜けて歩を進める。目的地は変わらない。
もはや二度とあの女とは利くまいその口を真一門に結び、俺は青信号へと赴いた。
――あの黒髪の女がいた、魔窟への通過地点として。
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