0.触穢へのペレストロイカ

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  「おっ……!」  背後に轟いた、何やら猛々しい掛け声。先ほど俺が否定した薫る風の中、エネルギーが一ヶ所にだけ圧縮されたような静けさが暫し続く。  それはまるで今まさに超新星大爆発が起きそうな白色矮星が、溜めに溜めた力を勿体つけているかのようだった。  それでも止まらないこの足には、もはや黒髪の女しか眼中に無いように見える。肩透かしをくらった直後では、もはやそれ以外に何も興味を示さなかった。 「――っしゃあぁ!! やっと二言以上喋らせてやったぁ!!」  ――は?  交差点を越え、横断歩道に踏み込んだ俺は、後方へと流るる風景が再び止まった事に気付いた。  人目も憚らず(はばからず)に、蒼天を仰いで大きく一行り。目には映らずとも、その破天荒な叫びを聞き逃す耳は無い。  しかし、俺は振り返らない。足は止まっているにも関わらず、振り返らない。  あの女は、俺が想像した以上に陳腐な理由を掲げて近寄ってきた。無意識に過度な期待をしていた俺からして見れば『愚の骨頂』の他に言葉が見つからない。  確かに俺自身も、昨日はたかだか血ごときで大袈裟な捉え方をしていた。思い返せば、もっと冷静に対処できる範疇の内だったさ。  だから、だからこそ興が削がれたのだ。  もっと何か異質な何かを――俺には想定も出来ないような大義名分があったかのように見えたのに、実際は僅々としたとした理由に従っただけと知ってしまったから。  拍子抜け、そんな言葉で片付けるにはまだ生ぬるい。自分勝手かもしれないが、失望していたのだ。  そのすぐ後に、俺はもう一度興味を持とうとしてしまっている。この足が何よりの証拠だ。  そして、もし俺がここで振り返れば……己の決断力の弱さが証明されてしまう。そうなったら、俺は俺自身を信用できなくなる。  自分しか信じざるを得ずに生きている俺にとって、それだけは何としても避けたかった。  人生の道中に間違いは付き物とは聞くが、絶対に間違えてはいけない物だってある。そしてそれを証明する分水嶺が――これだ。  何よりも信じていた自分を脱ぎ捨て、一時の衝動に身を委ねるか。或いは己に檄を飛ばし、まだ救い用のある自分を戒めるか。  ……俺はどうしても後者にしかなれない。そう考えないと、この六年間を過ごしてきた自分自身に顔向けできない。
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