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『……あの、君』
思い出すな。
『大丈夫なの?』
思い出すな。
震える脚にムチを打ち、一歩だけ前進。旋回中の戦闘機に乗せられたかのような重圧が、この身を引き裂かんと猛威を奮う。
それは、昨日の夕方頃の階段で味わった物と一致していた。脳裏に蘇る黒白が、もはや瞼の裏で完全に彼女を象っているので、まばたきはできなかった。
またもや早鐘を打つ鼓動と、間隔が定まらなくなった呼吸。
四方八方から視線を感じ、強張る体は岩のように重い。
「はっ……はぁ……」
逃げろ、逃げるんだ。でもどこへ走ればいい? 奴は今、どこに潜んでいるのか分からないというのに。
ひょっとしたら、立ち並ぶ教室の内のどれかに身を置いているかもしれない。かと思えば、遥か後方の曲がり角で鉢合わせするかもしれない。あの女と遭遇する事だけは、何としても回避しなければならないのに。
俺はどうする事もできず、無駄に一歩だけ踏んだ床を睨めつける。本鈴はとっくの通りに鳴っているというのに、指一本動かせない。
「――っ!?」
その刹那。激しい耳鳴りが襲い、視界は白黒へと眩む。
狂ったような笑い声が遠くに聞こえる。いたいけの無さそうな、無邪気な少女のそれだ。あの黒髪の女よりも、あの亜麻色の髪の女よりも幼く、そして荒んでいるようだった。
たまらず膝を折る。警告を促す脳みそは、アドレナリンを滝のごとく垂れ流していた。
くらくら歪む視界には、原型を留めた物など一つも無い。しかし、この耳はハッキリと声を明示していた。
『テメーさんはよぉ! そうやってのたうち回っていれば良いんだよォ! くかかかか』
誰だ? 誰が俺に語りかけている?
その愛らしい声で、少女は愉快そうに発狂していた。壊れているとしか思えないほど、狂気に満ち満ちていたのだ。
魂が抜かれるように、身体中の力がほどけていく。しがらみから解き放たれるように、意識が落ちていく。
そして、俺は眠った。
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