1.眩暈へのサンタ・バーバラ

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  「秋本。あ、き、も、と――」  夜風に凍えながらも無事に帰宅した真矢は夕食もまともに採らず、卓上へ敷き詰めた資料に目を走らせていた。  居間を照らす灯りはそのまま。本来ならば電気代すら渋るはずの彼も、此度の一件以外に何も考えられなかった。  自らが通う高校の入学式で得たパンフレットを広げ、ただひたすらに『秋本』という名前を――黒髪の女の名前を探す。  生徒名簿に、彼女の名は載っていない。何度も指でなぞっても、同じ苗字の人間はどこにもいない。  そういえば制服を着ていなかったか。そう思い立ってから、真矢はそれを机の隅に押しやった。  彼が今見やっている欄は、教師の名簿。教諭にしては若過ぎる風体ではあるものの、それ以外に彼女の名前を探す宛が無かったからである。 「あ、き、も――」  指、目、口、呼吸――その全てが止まる。彼は『秋本ちゃん』と呼称された女の名前を遂に見付けた。  しかしてそれは、以外にして奇異にして怪奇。阿久根真矢の他に誰も住まわぬ民家に、暗雲で繕った緞帳が降りる。 「――と。秋本 可矢(あきもと かや)」  その重低音で、ただ一人の女の名は象られた。そして、にわかに信じがたい事実に息は呑まれる。 『本校校長、並びに理事長、並びに保健室医務:秋本 可矢』 「……」  真矢は項垂れ、やがて体を背凭れに仰け反らせた。電気の無駄使いだとは頭の中で理解していても、彼はその灯りをひたと見つめる。  力無く垂らされた手には、ぐしゃぐしゃに握り潰されたパンフレット。  空腹すら忘れ、ただ一人の女の名を再び囁く。誰かに伝える為でも再認識する為でもない。  驚くほど自然に、彼はその名を口にしていたのだ。 「……なんだそりゃ」  新月の夜はひたすらに耽る。昨晩は眠れずに過ごしたというのに、この夜も不眠のまま駆けていってしまった。
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