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俺以外に、誰もここにはいない。数分前に出ていってしまった。
俺は蛇口にホースを繋ぎ、タイルで固まりかけた血を洗い流していた。こんな物を残したら校内が大騒ぎになってしまう。これ以上の面倒事は御免こうむる。
やれ犯人は誰だの、やれ被害者は誰だの、そんな探偵ごっこに付き合わされる時間と比べれば、血痕の後始末をする時間の方が遥かに短い。ならばそちらの選択肢をチョイスした方がマシだろう?
それに……いや、これ以上何かを考える事は無意味か。
やがて俺は何かについて考える事をやめ、赤い糸を孕んだ水が排水口に渦を作る様をただただ眺めることしかしなくなった。
脇目に映る鏡の中には、170センチメートルあまりの背を持つ蒼白い肌をした男が立っている。タイルに弾かれた水しぶきにより、ズボンの裾は色をどんよりと曇らせている。
口の端を血で汚し、伸びきった前髪で瞳を隠すその容姿は、少なからずとも明るい性格をしていそうには見えなかった。
――更に三分。タイルで水玉模様を描く雫たちを柄の長いブラシで排水口に押しやり、血の後始末は終わった。
淡々と作業をこなし、当たり前のように掃除用具を収納。絶え間なくどくどくと頬の裏の傷口から溢れる血を飲み込み、脇目も振らずにドアに手をかける。
湿った空気がガラリと変貌し、ワックスによって茜色の光を跳ね返す廊下へと俺は躍り出た。ブレザーを着た生徒は一人も見当たらない。
足音が遠くで響いているが、恐らく部活動の真っ最中の生徒か、もしくは先ほど男たちが話していた例の校長か。いずれにしても誰かが視界の外で歩いている事は確かな事である。
黄昏に染まる廊下を踏みしめた俺は、ドアの脇に放ってあった薄いバッグを肩に負う。そして進行先は足音のする方へ――偶然にも下駄箱は同じ方向である。
二つの足音が、まるで惹かれ合うようにして近付いていく。寄り道する事なく、まるで音の主に遭遇せざるを得ない状況が仕組まれているかのようだった。
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