0.触穢へのペレストロイカ

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 ――すれ違った。いや、『やっとすれ違えた』と言った方が正しいのかもしれない。  まるで眠れる獅子の脇を歩むような緊迫感。女とのほんの一瞬だけ築かれた数十センチ間は、心音すらも耳障りだった。  黒髪の女が先ほど登ってきた一段一段には、仄かにラベンダーに似た残り香が散布されている。それは大いなる存在感と複雑に混ざり合い、不気味さがより一層増した。  いる。振り向けばまだあの黒髪の女はいる。しかし、自分の中でそれは直感的に『禁忌』として捉えられてしまったため、顔をそちらに向けられない。  間違いなくこの女は非日常を抱えている。容姿からではなく、その存在感から。  ただ、それに近付くことなど絶対にできそうもない。例えるならば、中身が透けて見えるパンドラの箱に足が生えたような――それはそれでヘンテコな例ではあるが。  とにもかくにも、あの女とは関わるわけにいかない。それだけは確かな事。  あの女が学生だろうが教師だろうが関係無い。その存在そのものが何か嫌な予感をかき立てているのだ。  足は未だに重たいが、女のローファーの音はドップラー効果と共に離れている為、脱力感は既に肩から進行し始めている。  これ以上あの女との距離が縮んだら、膝から崩れ落ちてしまっていたかもしれない。  早く、そして速く、この場から離れよう。あの女の足音が次に聞こえたその時は、極力それを避けていこう。あの重圧感は二度も味わうべきものではない。  対策法は決まったが……何やら妙である。女に接近してからは、全てがスローモーションに見えるのだ。離れていく距離を物ともせず、自身も足音も、何もかもが。  ――それでも、離れている事実はねじ曲がらない。一刻も早く立ち去らねば。  いくら綺麗であどけない顔付きをしているとはいえ、あの黒曜石のような瞳の奥には映っていたのだ。禍々しくて毒々しい、どす黒い闇が。  たったすれ違うだけなのに、緊張感に呼ばれた冷や汗は容赦無く背筋に浮き上がっていた。だが、胸中では安堵のパーセンテージの方が高い。  ――そう、『逃げ切れた』と安心していたのだ。 「……あの、君」
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