前程万里[ゼンテイバンリ]

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ホームページの題は《不満足なソクラテスであれ》。 ソクラテスは、プラトンやアリストテレスと共に古代ギリシアの三大哲学者に数えられるほど偉大な人物であり、有名な〈無知の知〉を市民に熱心に伝授しようとしたが、志半ばに五百一人の陪審員からなるアテナイの市民裁判で『若者を堕落させ、神々を認めないとして』死刑を宣告され、後に恩赦と言う選択肢を蹴り『悪法もまた法なり』との言葉を残して、獄中にて毒盃を仰ぎその命を絶った悲劇の人でもある。 題にて用いられている言葉は、十九世紀のイギリスで経済学者ならびに政治家として活躍した、ジョン・スチュアート・ミルが書き記した著書(功利主義)の一説だ。 彼はこの著書で快楽の質的格差を主張し、実父の友人で功利主義の首唱者でもあるジェレミー・ベンサムの理論を救済しようとした。ベンサム理論への批判の一つに遍く諸価値を単一の尺度に還元すると言うものがあるが、正にこの批判に対してミルが張った論陣の内容が、ある快楽は他のある快楽より高級であるとのものだった。 高級な快楽とは即ち自らに備わった才能を伸ばすことで得られるものだ。他にもそれに資する芸術の観賞なども曰く高級な快楽である。 翻って低級な快楽とは単に感覚的な快楽のことを指す。例示すれば、セックスや賭博や飲酒や安住(怠けること)と言ったものが挙げられる。確かにセックスでは淫楽が、賭博では享楽が、飲酒では歓楽が、安住では悦楽が味える。そしてこれらに共通するは、そのどれもが全て感覚的快楽に過ぎないと言うことだ。 人間は常に高級な快楽ばかりを選択するのではないとミルは述べているが、同時に人間には高級な快楽を高級な快楽として認識する能力があり、高尚な人間は終極的には高級な快楽を選択するとも述べている。そしてミルはこの点を印象的な一説で強調している。こうだ。 『満足した豚であるより不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、愚か者や豚の意見がこれと異なるなら、それは彼等がこの問題について自分の側しか知らないからだ』 彼は全生徒にこれを伝えたかったのだ。 現状に安住するのは極めて心地がよい。変化することのない環境で日々を無為に過ごすほうが正直に言って楽だ。
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