第零章 日常

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「──ちょっと! 聞いているの!?」  僕と机を隔てた向こう側で散々文句を捲し立てた後、ヒステリックに女が怒鳴った。 非常に鼓膜に悪影響な声だ。 「やだなぁ、聞いてますってば」 自然と女を小馬鹿にした言い方をしてしまいながら、流し目で一瞬だけ女の方を見る。 「じゃあ、何とかしてって言ってるでしょ!」  僕の態度が気に食わなかった様で、胸倉に掴み掛かられた。 乱暴な上に五月蝿い女なんて、かなり嫌いだ。  そんな事を思いながら、掴んでいる両手を見る。 なんと左手の薬指に細い金の指輪をしている。 この女が僕の店に来て願いを叶えてやってから、そう時間は経っていないのだが、新品の筈の指輪はあちこち傷が付いている。 何かにぶつけた様な、擦られた様な、幾筋もの傷が。 「ご結婚なされたのですか。 御目出度い頭だ。 何人目の男性とですか? 金を稼ぐ才能は有っても女を見る目が無い、都合の良い男でも捕まえたんですか?」  最早、質問という形を取る罵倒をしていると、僕は女の逆鱗に触れてしまったらしく、激しく揺さぶられながら怒鳴り散らされる。 「そんなのどうでも良いでしょ! 旦那に他の男の事がバレたじゃない! どうしてくれんのよ! アンタ大丈夫だって言ったやよね!?」  揺れが収まって来た所で女の手を胸元から外し、本当は中指でも突き立ててやりたいがぐっと堪え、代わりに女の顔に向かって人差し指を突き付けてやる。 「お客様、その時僕はこうも言いましたよね? 〝不特定多数の男性との交際を可能にする貴女の代価は、特定の男性としか出来ない結婚だ〟と。 思い出して戴けましたか?」 突き付けた指を元に戻してにこりと笑った僕の前で、女はばつが悪そうに黙り込んでしまった。 「で、でも……何でよ」  かと思えば、納得のいかない様で口を尖らせながら抗議してくる。 「人と人というのは、糸で繋がっているんですよ。 縁とも言いますよね。 まあ、友情でも縁が切れれば友人ではなくなり、恋愛でも縁が切れれば恋人ではなくなります」 ほら、赤い糸とか云うでしょう、そう言いながら、僕は椅子に凭れ掛かった。
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