第零章 日常

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 五月蝿い女が静かになってリラックスしている僕とは対照的に、女は猫に追い詰められた鼠の様な顔で話を聞いている。 窮鼠猫を噛むなんて言葉も有るが、この場合僕に歯が食い込む事は無い。  こうなると自分の力を計り間違えた馬鹿な小型犬の様に、ギャンギャン吠え立てていた少し前の女の姿に懐かしささえ感じた。  だがこれはこれで、僕の嗜虐心を駆り立てられる。 弁えた以上の身の程というやつを、この女を痛め付ける事で理解させてやりたくなる。 「恋の糸というやつは巧く巻けば何本だろうと絡む事も千切れる事も無いでしょう。 ですが、結婚は違う。 太く、強固で、複雑な物になる。 糸なんて物じゃなくて、鎖に近い」  結婚式なんてものは、所詮、自由への告別式なのだ。 実際にチェコの結婚式では、新郎に四十㎏程の重しの付いた足枷を嵌めて、それを新婦によって外させる儀式がある。 「そんな物が在る中で糸なんて巻いたら、こんがらがるだけでしょう。 今の貴女の状態はここです。 理解出来てます?」 ━━にこりと何人もの人に褒められた人懐こい笑みを浮かべた。 「え、ええ」  女は居心地の悪そうに、最初に勧めたソファへと腰を下ろした。 傷だらけの指輪を忌々しげに弄る。 女の目には、傷など見えないだろう。  だが僕の目には確りと、彼女の薬指に巻き付くワイヤーの様な糸が見える。 肉に食い込む位に巻き付いた、何本もの糸が。 結婚をした事を後悔している様に指から外れる直前まで指輪を持ち上げ、その考えを打ち消す様にまたきちんと指に嵌める。 そうする事でワイヤーとの摩擦で指輪に付く無数の傷も女には解らない。 それを見ながら、僕は続けた。 「貴女の願いは【複数の男性と付き合う事】。 ですから僕の力で何本巻いても絶対に絡まない様にしたんです。 ですが貴女はその一つを鎖に変えてしまった。 僕との契約違反です」  女は暫く黙り込み、ただ指輪を動かしていた。 そしてまた外れる直前まで持ち上げた時、ぱあっと表情が明るくなる。 「じゃあ、新しい願いを言うわ! 鎖が在っても糸が絡まない様にして!」 女はソファから立ち上がり、僕の前まで近付いて机を叩きながら言った。 女の指で鈍く光る指輪と、女の自信たっぷりな顔を交互に見て、僕はにやりと笑った。 「貴女の願いを叶えましょう」
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