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白い着物を着た、侍と思われる男と炎の中に居るのだ。
見たこともないその男は、時に槍を振り回し、敵を突き刺し、時に弓を放っていた。
欄干の上に片足を乗せ、侍女らしき風貌の女から矢を受け取っている。
夢は日によって変化し、時にその侍は、清香を胸に抱き、何か言い聞かせている。
だが彼の言葉が読み取れない。
胸の中の清香は、男の意見に反発しているのか、首を振りながら泣いている。
諭す風の男の目を強く見つめ、決して離さず、片手は男の背の方の小袖を握り込んでいた。
すすや血に汚れた男の頬を震える手でさすろうとする清香だが、その手を男の手が握り返し、清香の胸元へ置いた。
すると清香は、まるで水の中で溺れているかのように、男の襟、帯、何処と言わず手を伸ばして引き寄せようとするが、男は既に、他の若い侍に清香を託していた。
清香はその若き侍に抱きかかえられているので身動きならない。
幼子が必死で親を求めるように手を伸ばし、身体をよじって泣いている。
白い小袖の侍は、満面に近い笑みを清香に向けると、一度、大きく頷いてから素早く背中を向け、建物の奥、炎の激しい方向へと消えていった。
この不思議な夢の共通点というか、清香が強く記憶する箇所がある。
弓を敵に向けて放っている時のその侍は無傷なのに対し、清香を胸に抱いている時、侍は負傷していた。
流血が酷く、確かではないが、傷は胸と腕の辺りだと思われる。
男の小袖も、清香のまとう白い小袖も赤く染まっていた。
目覚めの瞬間、決まって人に驚かされたように飛び起きる清香は、夢から覚めてからもしばらくの間、泣き伏すのだ。
理由など分からない。
悲しみだけが胸を貫いて抜けなかった。
「あのお侍さんは一体だれ?」
素朴な疑問を、他人に打ち明けることはなかった。
突拍子のない夢を、人に笑われるのが恥ずかしいのではない。
何か大切な秘密を、夢の中の侍と共有しているようであり、人に漏らすことを、本能的に拒否した。
漏らせば、秘密を共有している侍との縁を絶たれてしまいそうな、そんな気がしていたからだ。
(馬鹿な……)
玄関先で呆然としていた。
頭を強く振ってから、気分を変えようと、元気な声を意図的に作った。
「お母さんただいまー」
つづく
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