生い立ち

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今日もグラスを揺らしながら、思い出す事が在る。 そうか、あれからもう、 47年間生きて来たんだ・・ よく生きて来たな~と・・ 記憶を辿りながら、 ある男の人生を書いてみる。 たぶん、巷では 東京オリンピックで世間も戦後を感じ、平和を感じていたと思う。 焼け野原だった土地には、建物がそびえ立つ光景を、人々は見ていたような時代に、 そんな昭和の年に、 俺は生まれて来た。 都心から近い郊外で、 港街で、歌の歌詞に出て来る街である。 俺には、一つ上の姉がいた。その人生を早くに閉じてしまった姉、 そして一つ下の弟も生まれた。 その弟もまた、早くに急ぎ足で人生閉じる事に・・・ 俺達の親父はその町から程近い土地の生まれで、やはり短い人生であった。 祖父は、いわゆる任侠の世界の人である。 一家と呼ばれる長でもあった。 当時は、人夫出し、建築の会社もしてたと聞いている 人夫出しとは、所謂、手配師である。建築現場に斡旋する。いわゆる、ヤクザの凌ぎで有る。 博打は日常茶飯事で有り、テラ銭と呼ばれる、手数料なども有ったと聞いてる。 親父は祖父が芸者の、 めかけさんとの間に生まれた末っ子であった。 親父は、高校生で家を買い与えられたと聞いている。 高校出たのち、祖父の建築の会社を手伝っていたが、 呑む、打つ、買うの道楽三昧だったと、 後に知る母親から聞いた。 その母親は、親父より10歳若く、 田舎から出て、港町の飲み屋で親父と出会い、 結婚した。 その母親の顔は、後の俺が15歳で知る事と為る… そう、早くして離婚し、 我々は施設へと行く事になるきっかけの母親だった。 祖父が他界し、親父は異母兄弟とは絶縁関係となり、 俺達の母親とも離婚して、 男で一つでは、我々小さな子供三人を見れなかったからでもあるが、 今想えば、夫婦事は当人同士しか解らない事で色々と合ったんだと思う。 我々兄弟の児童福祉施設での生活が、 幼児の頃からスタートした…
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