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早朝。
龍一が両親と朝食を取っていると二階から早足で降りて来た姉の虎子が何も言わずにリビングを横切り玄関に向かう。
母がおはようの挨拶をかけたが姉はそれすら無視して家を出て行った。
今日は平日だしスーツを着ていたから出社したのだろう。
姉の様子からして、まだ昨日のことを怒っているようだった。
当然だ。一日で忘れろってのが無理がある。
食事を終えた父が席を立つとネクタイを締めながら息子に言った。
「龍一、虎子が帰ったら、もう一度謝っておけ」
ドスの利いた声は、まるで脅しのような響きがあった。
食事の箸を止めた龍一が、俯き加減で「うん……」と答える。
父に言われるまでもなかった。龍一も朝一で姉に再度謝る積もりだった。
だが姉の虎子は避けるように家を出て行ったのである。
龍一の心は罪悪感をチクチクと感じていた。
やがて強面の父も会社に出社するために玄関を出て行く。
それを母が家の外まで見送った。
父と母は仲が良い。
結婚して二十年が過ぎたが、新婚気取りで腕を組み寄り添っているシーンをちょくちょく見る。
近所でも評判なぐらいだ。
まさに美女と野獣というか、美女と極道である。
「ごちそうさま」
龍一も食事を終えて席を立つ。
そろそろ学校に行く時間だ。一度二階の自室に戻って鞄を取ってから玄関を目指した。
龍一が玄関で靴を履いていると母がいつものように弁当箱を持ってきてくれた。
「はい、お弁当」
「ありがとう、かあさん」
龍一が受け取った弁当箱を鞄に入れていると、更に母が何かを差し出す。
「龍~ちゃん、これで我慢してね……」
いつも微笑みを欠かさない母の顔が、眉毛だけをハの字に歪めていた。
母が差し出した物に龍一が視線を落とすと、それは二つ折りにされたレースのハンカチだった。
三角形に折られたレースのハンカチは、まるで女性用の下着にも見えた。
「かあさん……」
龍一が、こまったような顔で母を見る。だが手は二つ折りのハンカチに伸びていた。ガッシリと鷲掴む。
「かあさん……、ありがとう!」
龍一の眼に涙が滲む。
母のつかさは優しく微笑んでいた。
まさに女神である。
流石は奇跡の三十九歳である。
三角に折られたレースのハンカチをポケットにねじ込んだ龍一は、「かあさん、これを励みに今日も頑張るよ!」と心の中で感謝しながら家を出て行く。
憂鬱だった龍一の心が、大分癒やされた思いだった。
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