犬が死んだ日

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今朝、ナナコが死んだ。  柴の血が濃く見える雑種で、十八才のメスだった。犬にしては長生きしたほうだろう。  とくに病気や怪我をするでもなく、しずかな最期だった。  名前をつけたのは母だ。いまでも覚えている。子供のころ忠犬ハチ公の話に感動したという彼女は、あろうことか雌の子犬にハチと名付けようとした。さすがにそれはかわいそうだと私や父の抗議を受け、ハチではなくナナにしようということで、その名になった。  十八年間、ナナコと私は同じ家に暮らした。  散歩はほとんど私の仕事で、十八年間変わることのない日課だった。無職の人間が外出する、唯一の時間だ。  その日課も、一週間前には終わった。老衰のため、ナナコの足が立たなくなってしまったのだ。そのときから、彼女が死ぬことはわかっていた。  いや、初めてナナコを見たときからわかっていた。この命はいつか死ぬのだと。  だから、なにも悲しくはない。  母は泣いていたが、私は泣かなかった。そうすることに意義を見出せなかったからだ。  ずっと家の中で飼っていたせいか、ナナコは自分を人間だと思い込んでいるようなフシがあった。まるで人間のようにドアを開け閉めしたり、人間のように布団に入ったり、人間のようにテレビを見たりした。散歩中ほかの犬に出会うと、犬ではなく飼い主のほうにコミュニケートするような性格だったのだ。  無論、ほんとうにナナコが自分を人間だと思っていたかはわからない。他人の心がわからないのと同じように、犬の心もわかりはしない。ただ、私が自分勝手にそう解釈しただけだ。  もしナナコが自分を人間だと信じていたなら、そこに救いはある。  救いがないのは、人間になろうと努力していた場合だ。  残念ながら、犬は人間になれない。その方法を知らないからだ。
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