名残り

2/2
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
風を、切る。 こんなに気持ちいいなんて思わなかった。 両手じゃ掴めないくらいの空気を身体全体に受けながら、 あたしは飛んでる。 耳の近くで怒鳴る風の音は、全速力の新幹線の窓に耳を押し付けた時の音に似てる。 シャツの中をせわしなく、青い空気が通り抜けていって、まるで青に抱きしめられているみたい。 気怠そうに、でも熱心に羽を動かす渡り鳥達を追い越して、海に出る。 空気と、空と、水が、一色に混ざり合う場所。 地球で一番いとおしい場所。 なんて綺麗なんだろう。 暫く見惚れていると、急に進まなくなった。 体がぐるんっと反転し、後ろを振り向く。 さっきとは全然違う景色。 ネオンが眩しい。空は灰色だ。 見た事があるような気がするのに、全然知らない繁華街。 どこなんだろう。 突然、グンとスピードがあがった。 慌ててスピードを抑えようとするけど、コントロールの仕方を知らない事に気付いた。 喧騒の間を、馬鹿みたいに全力で飛ぶ。 信じられないほど低空飛行だ。 通り抜けるあたしに、抗議の声がいくつもあがる。 少し母さんの声が聞こえたような気がした。 何にも当たらないようにと祈りながら飛ぶ。 身体が一気に上昇する。 煙がのぼっているのか、さっき見た時よりも空が黒い。 体を駆け巡っていた心地良い浮力が無くなった。 焦る時間もなく、どんどん落ちていく。 あたしは落ちる中で、ゆっくりと空を仰いだ。 風の音だけが、はっきりと耳に残った。 やっぱり新幹線みたいだなって思う。 はっと瞼を開いた。 焦茶の天井が目に入る。 扇風機がすぐ近くで首を振ってる。 汗で髪が首筋にへばりついて、気持ち悪い。 台所から、母さんとばぁちゃんの声が聞こえる。 夕飯の準備をしてるみたい。 畳の部屋から見える庭の木に一匹、ひぐらしが止まって、おずおずと鳴き出した。 上半身だけ起こして、扇風機を「強」にして、ばったりと大の字になった。 瞼はしっかり開いたまま。 夕飯の号令がかかるまで、もう少しこのまんまでいよう。 部屋がオレンジから赤紫になっていく。 夜の始まりを、静かに告げた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!