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風を、切る。
こんなに気持ちいいなんて思わなかった。
両手じゃ掴めないくらいの空気を身体全体に受けながら、
あたしは飛んでる。
耳の近くで怒鳴る風の音は、全速力の新幹線の窓に耳を押し付けた時の音に似てる。
シャツの中をせわしなく、青い空気が通り抜けていって、まるで青に抱きしめられているみたい。
気怠そうに、でも熱心に羽を動かす渡り鳥達を追い越して、海に出る。
空気と、空と、水が、一色に混ざり合う場所。
地球で一番いとおしい場所。
なんて綺麗なんだろう。
暫く見惚れていると、急に進まなくなった。
体がぐるんっと反転し、後ろを振り向く。
さっきとは全然違う景色。
ネオンが眩しい。空は灰色だ。
見た事があるような気がするのに、全然知らない繁華街。
どこなんだろう。
突然、グンとスピードがあがった。
慌ててスピードを抑えようとするけど、コントロールの仕方を知らない事に気付いた。
喧騒の間を、馬鹿みたいに全力で飛ぶ。
信じられないほど低空飛行だ。
通り抜けるあたしに、抗議の声がいくつもあがる。
少し母さんの声が聞こえたような気がした。
何にも当たらないようにと祈りながら飛ぶ。
身体が一気に上昇する。
煙がのぼっているのか、さっき見た時よりも空が黒い。
体を駆け巡っていた心地良い浮力が無くなった。
焦る時間もなく、どんどん落ちていく。
あたしは落ちる中で、ゆっくりと空を仰いだ。
風の音だけが、はっきりと耳に残った。
やっぱり新幹線みたいだなって思う。
はっと瞼を開いた。
焦茶の天井が目に入る。
扇風機がすぐ近くで首を振ってる。
汗で髪が首筋にへばりついて、気持ち悪い。
台所から、母さんとばぁちゃんの声が聞こえる。
夕飯の準備をしてるみたい。
畳の部屋から見える庭の木に一匹、ひぐらしが止まって、おずおずと鳴き出した。
上半身だけ起こして、扇風機を「強」にして、ばったりと大の字になった。
瞼はしっかり開いたまま。
夕飯の号令がかかるまで、もう少しこのまんまでいよう。
部屋がオレンジから赤紫になっていく。
夜の始まりを、静かに告げた。
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