枯れ果てたいくらい。

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 バリトンやバスのように極端に低いわけでもない、ごく普通の掠れ気味のテノール。それなのに、響き方がバリトンのようだった。心臓の下をくすぐってくるような、低い声独特のあの不思議な響き。  たった一言の返事でそこまで拾ってしまう自分の耳を呪いながら、陽香はハイ……と小さく頷いて文庫本をちょうどいいサイズのビニールに入れた。雨が降っているから、ビニールの方がいいと思って。  陽香のその手元をじっと見つめながら、男は財布からきっちり660円を出し、トレイの上にひと目で判るよう並べる。  それを確認してから陽香が笑顔でビニール袋を差し出すと、 「それ、いらないから。やるよ」  そんなことを言って、男は止める間もなく店から出て行ってしまう。  陽香は一瞬何を言われたのか判らず、ポカンとその場に立ち尽くした。 「……って、ちょっと、困ります……!」  慌ててトレイをカウンターの中に置きレジをガシャンと閉めると、陽香は男の後を追うべく自動ドアをくぐる。  が、薄暗い大通りにさっきのピーコートと無造作ヘアは見当たらなかった。  今、出て行ったところなのに……。 .
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