Act.1 始まりの声

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握り締めたスマホが照らすのは足場の安定しない獣道。 自然は必死な逃走を嘲笑うかの如く根、枝、石、その他諸々を駆使して俺の走路を妨害する。 しかし枝に頬を引っ掻かれ、草に肌を切られ、固い根に足を取られようと体はその全てを蹴散らし進む。 そもそも光が照らし出された視界すら今の自身にとって殆ど情報の体を成していなかった。 今必要なのは進む道のみ。それ以外は危険を知らせる痛みも苦しさも必要ない。 たとえ目の前が棘の森だろうが毒虫の巣窟だろうが背後から迫る危険以上のものなんてあり得ない。 少なくとも本能がそう思い、最大の恐怖から逃れるべく全身全霊を逃走へと注ぎ込んでいたのだから。 「へ……っ!?」 ーーだからこそ気付くのが遅れた。 追い付きかけていた獣が脚を止めていた事も。 目の前の森が崖の如く切り立つ斜面に立っていた事も。 強く地面を踏み絞めるはずの足が空を切り、状況を理解した時にはもう手遅れだった。 予想外の事態に途切れる張り詰めた意識の糸。 消失する足場に何かを掴もうと反射神経が伸ばした手。 けれどそれは足と同じく見事に空振り、バランスを崩した体は坂道を転がり落ちていく。 「ぐ……!が……はっ、いっつ……ぁ……」 数秒の間で何度も移り変わる景色。 その中で味わう大小様々な痛覚刺激は特大の衝突音で締め括られた。 目の前が真っ白になる程の痛みは坂の終わりに立つ木の幹が体を受け止めた衝撃である。 背負うザックで激突の威力は多少緩和されていたが、呻く程の激痛の前では気休めにもならない。 詰まる息と重い痛みに顔をしかめながら俺は何とか体を起こそうと身を捩る。 だがうつ伏せからどうにか四つん這いになった時。 あの獣の唸り声が頭上から耳に届いた。 「く……そ、あんにゃろ。見下しやがって」 既にスマホは手からすっぽ抜けて何処かに消えている。 が、森が開けた事で届く月明かりが俺と獣。互いが互いを見える様に等しく両者を照らし出していた。 そうして見上げた凶悪な面に垣間見えるのは獲物を追い詰めた勝者の余裕。 此方が動けないのを尻目に青色の巨体はゆっくりと、確実な一歩目を斜面に刻む。 小さく響いた枯れ枝を踏み割る音。 そしてそこから獣の動きは速かった。 「ガアァァァァァァァァァッッ!」 雄叫び一発ーーまるで気合いを込める様に咆哮した巨躯が一直線に斜面を駆け降りる。
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