第六話

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   【一】 「ここだな……」  こういった由緒ありげで立派な旅館ほど、出入口は込み入った作りになっているものなので、誰がいつ出入りしたのかは分かり難い。その上、いかがわしさを越えた格式によって、一層深い闇の中に全ては隠されてしまうものらしい。    *  夕陽が冷たい海の水平線に隠れ始めた頃、逃げ出したいような恥ずかしさに苛まれながら、私はやっとの思いでここへ辿り着いた。待ち合わせをしていた田中社長は、約束通り裏口の門を潜ったところに立っていた。 「思った通りだ、とても綺麗ですよ」と、彼が誉めたのは、彼の注文通りに色留袖を着た、この恥ずかしい姿のことだ。  私は彼との契約通り、唇だけを動かして『コンニチワ』と無言の挨拶をした。  海の幸を使った豪華な夕食のあとに、私は初めて御座敷芸というものを見せてもらった。非常に興味深いものではあったが、酒に酔ってドンチャン騒ぎをするでもなく、余りにも真剣な顔つきで観察する彼と、契約により声を出せない私だけがそれを見ているので、部屋には重々しい空気が漂っていた。  帰り際に芸者達が、「頑張ってね」と、私に囁いたのは、玄人の目は誤魔化せないということなのだろう。まだ胆が据わりきっていない私は、ただ恥ずかしくてならなかった。  彼女達を見送る為、窓を開けると粉雪がハラハラと舞っていた。そんな寒々しい夜が更けていき床を並べはしたのだが、彼はそのまま眠ってしまい私に触れようともしなかった。    【二】  ママに斡旋されたこの仕事を、私は百万円の報酬で引き受けた。私は彼女のヒモであったが、業界に詳しく安全で金払いの良い客を探し出す彼女の利用価値を最大限引き出す為に、決して言いなりになることはしなかった。今回のように割りの良い仕事が入った時に限り、服を用意してもらったり化粧の仕方や、それに見合う仕草などを教えてもらう為に彼女の元へ行った。その時だけは望まれるままにヒモとしての役割をこなしていた。彼女としても、私と歳が十歳以上離れていることを気にしているようで、それ以上の機会を求めることはなかった。しかし実のところ、この関係に依存していたのは間違いなく私の方であった。  彼女は呆れるほど床上手だった。彼女に抱かれていると、何度でも生まれ変われるような、その度に別の人格に産み直してもらえるような、そんな感覚でありながらも、関わってしまったが最後、やがてはたった一人でこの世界に取り残されてしまい、二度と人の生きるべき場所へは戻れなくなってしまうような、そんな恐れも抱いていた。  私は食えない場末の歌手だったところを彼女に拾われ、女の格好をすることを条件に彼女の店で歌わせてもらっていた。無論それだけでは存在価値がなく、接客もしなければ食ってはいけない。  私は多分に女性的な容姿だったので、姿だけは苦もなく装うことが出来た。しかし声は低くドスが効きすぎる為、幾ら訓練をしてもそれらしくさえならなかったから、自分の不格好な接客を嫌がっているうちに、いつの間にか楽で実入りの良い男娼にまで身を落とすこととなってしまった。ただ、強い嫌悪感を持たないというだけであり、好んで男に抱かれている訳ではない。だからこそ恐らくは、これより下層は無いであろう地獄に、私は住んでいるのではないかと思う。しかし悲しいと感じたことはない。 .
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