第三十一話

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 山田が直ぐに人間だと判断を下せなかったのは、こんな岩場に、おいそれと船も無しで来られる訳がないと思ったからなのだが、邸から階段が設置されていることを知って、漸くあれが人間であると判断したのだ。だが、いざ対面した時の気まずさを思うと見つかりたくはないし、相手とてこのような場所で他人と出くわせば同じ思いであろうと考え、日が昇るまでは仮眠しようと寝袋に入ったのだった。  その見た目からは想像もつかないが、山田は釣りの為であれば、このような場所へも命懸けでやって来れるほど胆の座った男なので、どこでだろうと眠ることができる。  ――あの娘は、きっとあの屋敷に住んでいるのだろう。  そんなことを考えているうちに、ウトウトと半ば眠っていると、「おじさん、ねぇおじさん」と、心地好い若い女の声で揺り起こされた。ああ、さっきの娘だな……と、目を覚ました山田に向かい女は「ねぇ、ここで何をしているの?」と、不思議そうに尋ねた。 「釣りだよ。たまたま通りかかってあんたに気づいたんだが、気まずいから寝てたんだ」  すると女は「気にしなくていいのに」と、可笑しそうに笑った。 「ねぇおじさん、一つお願いがあるんだけど」 「なんだい?」 「あそこに大きな家があるでしょう? もしあの家の人に会っても、私がここに居たことを黙っていて欲しいの」 「いいけど、君はあの家の人じゃないのかい?」 「うん。前はそうだったけど、でも今は違うの」  或いは家出の類いかとも考えた山田は、事情によるとして訳を訊いてみた。 「あの家にはとても優しい人達が住んでいて、今は楽しく暮らしているの。私が居ると迷惑になるから、もう帰れないのだけど、時々こうして懐かしんでいるのよ」 「家出じゃないんだね」  山田はここだけを確認すると、黙っていることを約束した。  すると女はホッとしたように「じゃあまたね。おじさんも時々この辺りに来るなら、また会えるね」  そう言い残すと、いきなり海へ飛び込んだので山田は慌てたが、屋敷の人間に気づかれるのはまずいと考え、絞るような声で「おい、大丈夫か?」と、呼びかけたのだが、「泳ぐのは得意なのよ」そう女は答え、竿ヶ島おけさを歌いながら沖へ出て行ってしまった。  それからも度々この岩場で、二人は出くわしていたのだった。  女は「海で働いている」と言っていた。しかし山田は突き詰めてその業種を確かめてはいない。只、仕事が終わると度々ここへやって来ては屋敷の灯りを眺めながら仮眠をとったり、持ち込んだ食料品などを飲み食いしていたようだ。 .
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