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そんな居心地の良い静寂に身を委ねていると、遠くの方からオレンジ色の光が見えた。
その光は徐々にこちらに近づき、やがて、やや古ぼけた大きな車体を確認する。
下り電車の終電が、俺達の目の前で重々しく音を立てて停車した。
七瀬を乗せるためにドアが開く。
「ほら、終電が来たぞ」
「……はい」
俺の呼び掛けに立ち上がった七瀬の声は、しかしどこか力が無かった。
一歩だけ足を進めて、こちらを振り替える七瀬。
俯き加減で、コーヒー缶を弄る指先を見つめている。
「ん、どうした?」
「えっと、その……」
七瀬が俯いたまま何か言わんと口をもごつかせているが、どうにも聞き取ることが出来ない。
何か伝えたいことでもあるのだろうか。
しかし、早くしないと電車のドアが閉まってしまうかもしれない。
言いづらい事なら後で真奈美に七瀬のケータイのアドレスを聞けばいいし、今は電車に乗せるべきだろう。
とりあえずコーヒーを返してもらうために右手を差し出した。
「ほら、コーヒー飲まないなら返してくれ」
「……お、お兄さん!」
七瀬が勢いよく顔を上げたかと思うと、何を考えたか、コーヒー缶を受け取るために差し出した右手を掴んできた。
こちらの驚きを構いもせず、握手するかのようにギュッと手を握られる。
ホットのコーヒー缶を握り続けていた手は、ほんのりと温かい。
さらに、七瀬があまりに思い詰めたような表情で頬を赤くしていたため、焦りが急に引いていってしまった。
「……七瀬?」
「あの、お兄さん……」
「…………」
「さっきはお断りしちゃいましたけど、その……もしよかったら」
プァーッと、七瀬の言葉を遮るように、けたたましい電車のクラクションが辺りに響いた。
どうやら運転手が、乗るならさっさと乗れ、とご立腹らしい。
突然緊張の糸を切られて思考が定まらなくなってしまったらしく、七瀬があたふたと俺と電車を交互に見比べる。
「…………」
「……あっ」
嘆息を禁じ得ないながらも、七瀬の手を引いて電車に乗り込む。
七瀬が小さく漏らした声をかき消すように、音を立ててドアが閉まる。
手近な席に七瀬を座らせて、俺もその隣に座る。
握った手から力を抜いてみても、七瀬は手を離そうとはしない。
しかし、七瀬の手の温もりが俺の冷えきった指先にじわりと染みて、とても振り払らう気にはなれなかった。
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