消失

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 自宅に足を踏み入れると、靴下を通してフローリングの感覚が久し振りに思えてきて、不思議と病院のスリッパの感触が全身に思い起こされました。長く居すぎたのかもしれません。色々とやらなければならないことは山積みでしたが、真っ先にソファーで突っ伏してしまい、そのままぼくの時間は止まりました。  意識を取り戻すと、帰宅してから二時間は悠に越えており、やらなければならいことの優先順位を頭で整え、その幾つかをこなしました。  家というのを意識して見るようになると、希望に満ち溢れていた時期が儚げにフラッシュバックするものです。無心で身体を動かしました。 ──────3年もてば良い方でしょう。と言ったのでした。彼女の担当医が。  5歳くらい老けた顔で、まずおとうさんを見て、すいませんでした、と。  声にならない震えを抑えながら、頭を上げてください、とおとうさんが言いました。  それを皮切りに、おかあさんが泣き崩れ、支えようとしたおとうさんも涕泣してしまい、二人は八畳もない部屋に悲しみを詰め込みました。  ぼくは二人を支えればよいのか、このままそっとしておくべきなのか、詮方なく立ち尽くしていました。  ふと、白衣の彼に両目を転じると、彼は泣いていました。シャープな顎を伝うのを拭わずに、止めどない涙を自然に任せていました。  それがどのような意味を込めた水滴なのかぼくには把握できません。しかし、医者というのはこのようなケースには慣れてばかりいるものだと先入していたばかりですか、彼の人間性というものを初めて垣間見た気がしました。  そして彼の涙を見て、ぼくのこめかみが熱を帯びるのがわかってしまいました。くっと上を見上げ、高くない天井と、明滅を繰り返す蛍光灯、褪せたクリーム色を視線に捕らえ、抑えきれずに、数えるほどの涙が顔のあちらこちらを辿っていきました。  3年とは、どれほどの長さなのでしょうか。  何せ3年です。それはもう、あっという間なのでしょう。  おとうさん、おかあさんさえも予期せぬ結果、だったと思います。  ベランダに出て洗濯物を干そうかというとき、初秋の風が吹いて、7階もあるここに枯れた葉っぱが入り込んできました。名前も知らない鳥が、ここではないマンションに着陸し、姿の見えない車のエンジン音が耳に届きます。  もっと長く生きさせてやりたい。誰もがそう願っていました。
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