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 狐は不意に駆け出した。何故かもう男の持つ包丁など、少しも怖くなかった。  あの女の首を、せめて身体の元へ。もうあの赤く美しい唇が言葉を発することがなくても、硝子玉のような瞳が新しい何かを映すことがなくても、それでも五体満足で、この娘を好いていた者たちの手で、きっと何処かにある天国へと、神様だか仏様だかがいて、綺麗な蓮の花が咲いているという、極楽浄土へ。  狐は走った。女の結わえた髪をくわえて、麓の村へ続く道へと体を向けた。  そして最後に一瞬、まだ包丁を振り回しながら『待て』と暴れまわる男の姿を一瞥した。 『そいつは俺のもんだ、俺の女だ、返せ、返せ、返せ……』  男はもう、現の世界を見てはいないようだった。他の誰も入ってはいけない、己だけの世界だけを見ているようだった。  狐は女の首をくわえて走った。どこでどう道を踏み外して、あんな狂った世界にしか生きられなくなってしまったのか。狂って襲いかかってくる姿はあまりに恐ろしかったが、しかし同時に男が哀れにも思えてどうしようもなかった。  他にやりようがあっただろう、女は他にもいただろう、幸せにだってなれただろうよ。  どうして、お前のその執着心のために、これから幸せに生きてゆくはずだった若い美しい命の灯火が、消えなくてはならないのか。  狐は山道を駆け降りながら、今まで生きてきた中で一番に色々なことを思った。女の硝子玉の瞳が、狐がこれまでに思いも寄らなかった心の奥の何かを刺激した。  麓の村が見えてくると、突然に張り詰めた気持ちの糸がぷつりと切れた。  気狂いの病というものが、生まれつきなのかある日突然なるものなのかは知らないが、在ることは知っていた。そんな病に犯されたら、それはそれは苦労するだろう。毎日毎日塞ぎ込んだり、訳の分からないことを突然叫んだり、当の本人も周りの者もそれはそれは大変だろう。  しかし、狐が今日出会ったあの男は、あれは病なのだろうか。気が狂っているのは違いない。けれども、あの狂気は、欲しいもののために幸せに生きていたはずの他のものの命を容易く奪うあの狂気は、あれを『悪』と呼ばずに他に何と言えようか。  狐は今日、悪を目の当たりにしたのだ。男から離れて再び込み上げるような恐怖に襲われた。  あんなもの、わからないし、わかりたくもなかった。  それでも確実にこの世に在るのだ。 
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