冷雨の夜に

3/5

257人が本棚に入れています
本棚に追加
/192ページ
受付で鍵をもらい、俺たちは黙って階段を登っていく。 途中、踊り場で俺は足を止め、後ろを振り向いて妻に話しかけた。 「なあ、さっきも車で言ったんだけどよ、俺の分は使っちまってもうないんだよ。頼む。お前の小遣いからちょっとだけ貸してくれないか」 妻は相変わらず俯いて何も言わない。長い前髪に隠れて顔は見えなかった。 「ちょっとだけ。なあ、絶対返すからさ」 「……」 「ホントに頼むって。困ってるんだよ。な?いいだろ……おい、何か言えよ」 「……」 俺は完全に無視されている。そう認識した瞬間、俺の中で何かが弾けた。 「聞いてんのかお前はぁ!」 気づいたら妻を片手で突き飛ばしていた。妻は壁に勢いよくぶつかり、うっと呻く。 妻はしばらく壁にもたれていたが、やがてゆっくり起き上がり、階段を登っていった。 俺は唐突に頭の線が切れることがある。今までも度々こういうことはあったから、今回のことは別に特別なことでもない。 けれども俺が悪いとは思わない。 あいつは免許を持っていないから、俺が貴重な時間を割いてまで病院へ通う足となってやっている。なのにあいつは俺に感謝するどころか、俺の小さな頼みを受けたくない故に、無視をしたのだ。あまりにも身勝手ではないか。それに怒るのは当然のことだと俺は思う。 俺は黙って妻の後を追った。
/192ページ

最初のコメントを投稿しよう!

257人が本棚に入れています
本棚に追加